ケインズ全集第1巻 インドの通貨と金融

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<div class=”kattene__title”><a target=”_blank” href=” https://amzn.to/32qbNyk “> ケインズ全集 第1巻 インドの通貨と金融 </a></div>
<div class=”kattene__description”> ケインズ (著), 則武 保夫 (翻訳), & 1 その他 </div>
<div class=”kattene__description”>出版社 : 東洋経済新報社 (1977/1/1)、出典:出版社HP</div>
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「ケインズ全集」日本語版の序文

 

経済学はいま二重の意味で、大きな危機にさらされている。一つは世界経済そのものがかってない大規模の不況の中におちこんでいることである。これは必ずしもそのまま経済学の責任とはいえないかも知れない。しかし世界の各国がいままでの経済学の、あらゆる知識を動員して実行している政策が、スタグフレーションからの脱却という点では、いずれも思うように成功していないということは、やがて経済学への不信となることは否定できない。

 

いま一つは、成長の代償としての環境の破壊や、資源の不足からくるコストの増加や、いままでの経済学の固有の領域をこえる問題が登場して、経済学そのものの改造が要求されていることである。成長の結果が、成長への疑問をひきおこすということになれば、そこから経済学の危機がさけばれるのも、やむを得ないであろう。経済学をめぐるこのような危機意識が、これからの経済学にどのような影響を与えていくかは、将来の問題である。ただここでいいたいことは、この危機意識の、どれもが深くケインズと結びついていることである。

 

まず、政策面から考えてみよう。ある人には、世界経済が直面する失業とインフレーションは、まさにケインズの提唱した完全雇用政策の結果であると主張する。ケインズの所得決定論は、マクロでみた投資と貯蓄の均衡が、必ずしも完全雇用を保証しないことを証明する。そこから不況に際して失業を防ぐためには適切な財政・金融政策によって要を造出することが必要となる。戦後の各国はみなこの政策をとって完全雇用を実現した。しかし、実際にはそれはインフレーションを伴い、その結果が、今日のスタグフレーションになっていると批判するのである。

 

政策の面からみて、ケインズの経済学が特に三〇年代の不況克服に大きく貢献したことは明白である。かりにいま批判されているように、現在のスタグフレーションがその結果であるとしても、これからの脱出には、まずケインズに遡って考えることが必要であろう。その上に、ケインズの経済学は、こうした政策面でだけとらえられてはならぬという面をもっている。それは古典学派の経済学が、その自由貿易政策によっては完全にとらえられないのと同様である。その発見は自由貿易主義が世界を風靡した一〇〇年の後に行なわれたものであった。ケインズの場合にも、正しい理論と政策の評価は恐らくずっと先のことであろう。そうだとしても現在の問題か、何よりもまずゲインズとつながることは明白である。

 

経済学そのものの危機意識についてもまた同様である。環境の破壊や、資源の有限性や、その意識の底には確かにケインズ経済学の視野の中になかった問題を含んでいる。しかし、こうした問題を、特に現代の問題として登場させた原因が、外ならぬ経済成長にあったとすれば、それは決してケインズと無縁ではない。ハロッドを起点として展開された成長論は、もちろんケインズにつながるものであった。その上に、ここに指摘されている公害やコストの新しい問題に接近する方法は、ケインズから新古典派総合にいたるマクロ分析の発展に負うものである。この方法に依存することなしに、経済学の新しい分野への拡充は期待することができないであろう。

 

総じて危機意識の先に予想される経済学への途には二つの方向が考えられる。一つはケインズによって強調された政策化への途を、さらに一歩おし進めて、市場経済に対する公権の介入を是認し、経済の全体としての計画化に行こうとする方向がその一つ。ケインズがマーシャルからうけついで、全く手をつけないままに残してきた市場経済原則を、改めて問題として取り上げようとする方向が、その二つである。

 

周知のように新古典派総合は、この二つの方向を完全雇用を境にして別々に認めようとした。完全雇用に達するまではケインズの政策で、それ以後は市場原則でというのが彼らの主張するミックス・ポリシーの骨格であった。しかし、そうした総合が、理論的にも政策的にも不完全なものだということは明白である。現在の経済学に対する危機意識は、すでにはるかにこの段階を越えているといってよい。市場症済の地位をどのように認めるべきか、それは今ではケインズの時代よりは、はるかに大きな問題となってはいるが、依然としてここにもケインズを始発点とする問題がある。

 

現代の、あらゆる問題がすべてケインズから出ているというのは、もちろん言いすぎである。誇張していえば、それはすべての問題がアダム・スミスにあるというのと、あまり違わないであろう。しかし、ケインズが出てきてから、正確にいえば一九三六年の『一般理論』によって、それが「新しい経済学」として認められてから、一九七六年の今日まで、完全雇用といい、経済成長といい、世界通貨といい、あまりにも多くの経済的変化が、ケインズの名と結びついている。

 

「一般理論』から今日までの四〇年間に世界に起こった経済的変化は、一国的にはそれぞれの特殊の説明要因があっても、総体としてはケインズ的世界の中のことであった。それが行きづまってスタグフレーションになっているとしても、それから脱却するためには、改めてケインズに遡って考える必要があるというのも、この意味では、決していいすぎではないであろう。

 

ケインズ経済学が新しい経済学として認られた背景は三〇年代の世界恐慌であった。そこで経験された不況と失楽とを教済するものとして、ケインズ理論は大きな役割を果たした。背景としての事情はいま大いに異なる。三〇年代の不況は物価のデフレーションを特色としたが、七〇年代の不況はインフレーションのただ中に起こっている。症済に対する見方にも大きな変化がある。かつては例外とされた市場経済への介入は、いまでは当然のことのようにその幅を拡大した。

 

しかし、事情や政策意識のあらゆる変化にもかかわらず、三〇年代と七〇年代との間には何か共通のものがある。三〇年代のケインズに対して、七〇年代にそれこそ新しいケインズを待望する声のあるのも理由なしとしない。ただ新しいケインズは、古いケインズと無関係にはでてこない。これがいま、われわれのいいたいことである。

 

三〇年代の世界が経済学にとって一つの転機だったとしたら、七〇年代のそれも、同じように一つの転機であろう。転機として注目される要因や現象はいたるところにある。その本質的なものをとらえて、いま一度新しい経済学の体系を編み出すのは、これからの経済学者の仕事である。ケインズはケインジアンを生み出し、やがて、新古典派総合となり、いまでは再びケインズに帰れという動きをさえ生み出している。そうした変化の先に、第二のケインズを想定することは決して夢ではない。

 

しかし、かりに第二第三のケインズが生まれたとしても、元のケインズが死ぬわけではない。われわれのもつ経済世界のイメージがかくも深くケインズの名と結びついている限り、その経済学は、これを読む者に常に新しい力を与えつづけるであろう。うけとる人によってその意味を異にしながら、したがってたえず批判をあびっち生きつづけていく、それはまさに古典と呼ぶにふさわしい存在である。

 

この全集は、巻頭の序文にあるように、イギリスの王立経済学会が、この学会につくしたケインズの功績をたたえて刊行されたものである。したがって、そこにはケインズに対する何の評価も出ていない。しかし、それを日本で出版するに当たって、同じようにするわけにはいかない。できれば世界の経済および経済学に与えた影響、別しては日本の経済および経済学に与えた影響について何らかの叙述がほしいし、さらに望めば、その評価がほしい。

 

しかし、それは、ここで企てるべくあまりに大きな仕事であるし、評価にいたってはまだその時ではない。その上に、この全集には、狭い意味での経済学をこえた、人間としてのケインズを知るべき幾多の資料がある。少なくとも原文によるこの全集の完結するまでは、そしてこの邦訳による全集が完結するまでは、刊行される一巻一巻を味続されるよう願うほかはない。

 

この邦訳全集の刊行に当たっては、翻訳者の選択、監問者の選択に最大の注意を払った。ケインズ研究家として名を知られているこれらの学者が、われわれの企画のために、この自己犠牲的な仕事を快く引き受けていただいたことに対しては、編集者として感謝の外はない。日本でのケインズ全集出版社として承認された東洋経済新報社が、万難を排してこの企画を敢行されたことも、われわれの欣快とするところである。

 

昭和五一年七月

編集委員代表中山伊知郎

 

 

凡例

一、原典のできるだけ完全な日本語版を期した。

一、原典のページは下部欄外に示した。

一、原典の本文は9ポイントで、小活字のものは8ポイント活字で組んだ。

一、本文中のイタリックの箇所は原則として黒マルの傍点・・・を付した。ただし、書名、新聞、雑誌名の場合は『』で示し、表題および表題に類するもの、およびラテン語などには傍点を付していない。

一、原典で、人名、地名などの固有名詞、習慣的に大文字で書く名詞を除き、本文中に出てくる大文字は白丸の傍点は。。。を付した。

一、原書注は()で示し、段落のあとに6号活字で組んだ。注番号は段落ごとの通し番号とし、原書注番号と必ずしも一致ーない。訳者注は[ ]で示し、段落のあとに、原書注の後に6号活字で示した。ただし訳文の理解のために補った短ものは[ ]で本文中に挿入した。

一、引用符は「」で示した。ただし引用符の中の二重引用符は『』で示した。

一、各巻のなかに出てくる他巻の参照ページは、原典のページで示した。

一、人名、地名などの固有名詞は原則として原語読みにしたがって表記した。

一、SirおよびLordについては、前者は片仮名でサーと表記し、後者は卿と訳した。

一、表については組み方の関係で原典と変えたものがある。

 

目次

 

「ケインズ全集」日本語版の序文

凡例

全巻の序文

編集者序文

序文

登場人物

第一章 ルピーの現状

第二章 金為替本位制

第三章 紙幣

第四章 インドの金の現状と金通貨の提案

第五章 インド省手形と送金

第六章 インド大臣準備金と現金残高

第七章 インドの銀行業

第八章 インドの割引率

訳者あとがき

索引(巻末)

全巻の序文

 

この「ジョン・メイナード・ケインズ全集」の新標準版は、王立経済学会が彼を記念して世に送るものである。彼はその多忙な生涯のきわめて大きな部分を、この学会のためにささげてくれた。一九一一年二八歳のとき、彼はエッジワース(Edgeworth)につづいて『エコノミック・ジャーナル』の編集者となり、二年後にはそのうえ幹事にもなった。彼は生涯のほとんど最後まで引き続いてこれらの職務に精励した。確かに、エッジワースは復帰して、一九一九年から二五年までふたたび編集者の地位で彼を助け、ついでマクグレゴー(MacGregor)が一九三四年までエッジワースの職に代わったのち、同年からオースティン・ロビンソン(AustinRobinson)がマクグレゴーの後任となって一九四五年まで引き続いてケインズを援助してきた。

 

しかし、これらの全年月をつうじて、一九三七年彼が重病であったときの一、二号の発行を除けば、ケインズはなんら途切れることなく、『エコノミック・ジャーナル』に発表される論文について自分自身で大きな責任を負い、そして主要な決定を行なってきたのである。彼が会長に選ばれ、編集者の職をロイ・ハロッドに、幹事の職をオースティン・ロビンソンに張ったのは、一九四六年復活祭の彼の死のわずか数カ月前であった。

 

編集者と幹事の二つの資格で、ケインズは王立経済学会の政策を形成するのに大きな役割を果たした。学会のいくつかの大きな出版活動――一九三〇年代における多くの初期の出版物のほかに、リカードゥ(Ricardo)全集のスラる。このような事例については、この全集はもっとも興味のあるものを選択して、多少の差のある論文のなかから一つだけを出版するであろう。

 

ケインズの経済書備については、選り抜きになるのは避けがたい。タイプライターとファイル・キャビネットの現代において、とくに活動的で多忙な人物の場合は、若干の重要でない時事的な問題について、彼が口述したすべての文書の小片を出版することはとうてい不可能である。それにもかかわらず、われわれは、ケインズが同僚の経済学者との議論のなかで、彼自身の見解を展開した手紙は、ケインズが公職についていた時代のよりいっそう重要な手紙と同様、できるだけ多く収集し出成するつもりである。

 

出版された書物は別として、この全集を準備するのに利用しうる主要な資料は二つあった。第一は、ケインズが這区言で、リチャード・カーン(RichardKahn)を遺言執行人とし、彼の金済論文に責任をもたせたものである。これらはケンブリッジ大学のマーシャル図書館のなかに置かれており、この出版に利用することができた。一九一四年までケインズは秘書をもたず、彼のもっとも初期の文書は、主として彼が自分の手書きによって執筆し、保管してきた重要な手法のみからなっている。その時期について、われわれが所有している手紙の大部分は、役が書いた手紙よりもむしろ彼が受け取った手紙で代表されている。

 

一九一四年から一八年にかけての戦時中は、ケインズは大蔵省に勤務しており、そのとき彼が執筆した文書の多くは、三〇年規則の下にあったこの期間の記録の公開が許される同時に利用可能となった。一九一九年以降は、生理のありを通じて、ケインズは秘書――長年月の間スティーヴンス(Stevens)夫人の授助を得た。だから、役の活動した生の最後の二五年間については、われわれは多くの場合設の受け取った手紙の原文と同様に、彼自身の手紙の写しをも持っているのである。

 

もちろん、この時期にも、彼が自分自身で手書きによって書いた場合があった。これらの場合のあるものについては、彼の発送先の協力をえて、いくつかの重要な往復書簡の全部を収集することができた。そして、われわれは二人の交信者に公平に、両方の手紙が全文出版されるように配慮した。

第二の主要な情報頭は、ケインズの母堂フローレンス・ケインズ(FlorenceKeynes)すなわちネヴィル・ケインズ(NevilleKeynes)の夫人によって、非常に長い年月にわたって保管されてきた一群の切技き機であった。一九一九年以降これらの切抜き帳には、メイナード・ケインズの時事的な文書のほとんど大部分、新聞への投稿、それから役が執筆したものばかりでなく、彼の文書への他者の反応も知ることができる多くの資料、が入っている。これらのきわめて注意深く保管された切故をなくしては、ケインズの編集者や伝記作者の仕事は、はるかに困難なものとなったであろう。

 

 

この出版の計画は、現在企画されているところは、次のとおりである。それは、全二一巻となるであろう。これらのうち最初の八巻は、一九一三年の『インドの通貨と金談』から一九三六年の『一般理論』までに『確率論』を加えxた、ケインズの出成された書物である。次に、第九巻と第一〇巻として、『説得評論集』と『人物評伝』とが続くが、これらはケインズ自身の手になる論文集を代表しているわけである。『説得評論集』は、最初の成と二つの点において違っている。

 

その一つは、初成のなかに入れられていた論文とパンフレットの完全な原文を掲載し、(初版のときのように)短縮した形のものとはしなかったことであり、もう一つはケインズが当初の論文集に入れたものとまったく同じ性格をもつ、一、二の後期の論文を追加したことである。『人物評伝』の場合には、ケインズが一九三三年より後に執筆した、一、二の他の伝記論文をも追加するであろう。それに続くのは、経済論文と書簡の三巻、第一一巻から第一三巻までと、社会・政治および文学の著作の一巻である。われわれはこれらの巻のなかに、その巻に印刷されている論文と非常に関連のあるケインズの経済書簡をも含めるであろう。

 

われわれが現在予定している後続の六巻は、一九〇五年の彼の公的生活の開始から逝去にいたるまでのケインズの『諸活動』を取り扱う。この資料は各時代ごとに分散する計画であるが、それぞれ当該の巻には、これまでに未収集のより時事的な著作のすべて、これらの諸活動に関連した後の書簡、およびケインズの諸活動を理解する上で必要なその他の資料と書簡とを発表するであろう。これらの巻は、エリザベス・ジョンソン(ElizabethJohnson)によって編集されつつあり、ケインズの諸活動を追跡し解釈して、後世にこの資料が十分理解できるようにするのが彼女の仕事である。この仕事がさらに進歩するまでは、今のわれわれの考えでは、この資料が六巻に配分されるか、あるいはさらにもう一巻ないし数巻に拡大することを要するか、正確にいうのはむつかしい。最後の巻は文献目録と索引にあてられるであろう。

 

この全集に責任を負うてきた人々は、次のとおりである。ケインズ卿の遺言執行人であると同時に、ケインズ卿の長年にわたる親密な友人であり、さらにまた、さもなければ誤解されたかもしれない多くの事柄を説明する上で大きxな助けとなったカーン卿。ケインズの伝記作者であるサー・ロイ・ハロッド。『エコノミック・ジャーナル』のケインズの共同編集者であり、また王立経済学会の幹事の後経者であるオースティン・ロビンソン。さらに、主要な編集の仕事はエリザベス・ジョンソンによって行なわれてきた。彼女は、それぞれ異なった時期に、ジェーン・シスルスウェイト(JaneThistlethwaite)、当初からケインズの文書の綴込みを体系的に整頓する任にあたったマクドナルド(McDonald)夫人、長年にわたってジョンソン夫人とともにケインズの文書の仕事をしてきたジュディス・マスタ1マン(JudithMasterman)、による援助を受けた。

 

編集者序文

『インドの通貨と金融』は、ケインズの最初の書物であり、一九一三年に出版された。一九〇六年から一九〇八年までインド省に勤務したあいだに得られた、インドの通貨問題へのケインズの関心の背景は、この「ジョン・メイナ1ド・ケインズ全集」版の第一五巻のなかに見出されるであろう。この問題への彼の関心が、彼のインドの通貨・金融王立委員会(一九一三年)への任命に導いた。委員会での議論と委員会報告の構成と内容への彼の貢献もまた、第一五巻に見出されるであろう。

 

本巻の原文は、一九二四年に再版された最初の版のそれと変りがない。その原文よりわずかに変わっているのは、一九一三年に採用されたマクミラン社の印刷よりもわずかに大文字の使用の頻度が少ないことと、彼の父親、ジョン・ネヴィル・ケインズ(本全集、第一五巻参照)によって作成された索引に、より体系化するというよりも父親の資格で意図的に行なわれたもののように思われる少数の人名の追加とである。

 

一つだけ追加が行なわれた。ケインズが、インドの金融問題に主として関わりあった人達との連帯感と責任感をもって書いた人々に、親しさを示したのは当然のことであった。これらの氏名の多くをまったく知らない後代の人々に役立つように、われわれは、主たる登場人物についてごく短い伝記的注記を追加した。

 

序文

以下の諸章が最後の一章を除いてすべて活字に組まれた時に、私は、インドの金融と通貨に関する委員会(一九一三年)に席を与えられた。もし、私の書物がもうすこし進捗していなかったならば、私はもちろん、委員会が報告を出し、委員会の議論と委員会に提出された証言によって、私の意見がより完全に形成されるまで、出版をおくらせたであろう。しかし、そういう事情であるから、私はすでに執筆済みのものを、計画にはあった若干の他の章を加えることもなく即刻出版することを決心した。現に見られるごとく、本書の発行は、委員会の作業よりずっと先立つのである。

 

一九一三年五月一二日ケンブリッジ、キングズ・カレッジ

J・M・ケインズ

 

登場人物

エイディ、ウォルター・シバルド(ADIE,WalterSibbald)一八七二年誕生。ケンブリッジ大学。数学学位試験首席一八九四「年。ボート・レース選手一八九五年。インド文官に任官一八九六年。ベンガルに勤務。数州の財務局に勤務一八九九一一九〇三

年。数州の経理局長一九〇八―一二年。マーシェダパドの収入役一九一七ーニ九。一九五六年死去。

 

アトキンソン、フレデリック・ジェームズ(ATKINSON,FrederickJames)一八五〇年誕生。インドの財務局に入る一八七三年。ベンガル、後にボンベイと北西諸州に動務。通貨監督官並監督局長に就任一八九〇年。各州で経理局次長または会計検査長官を動務一八九一一一九〇四年。インド国車の検査官に就任一九〇〇年。インドの通貨と為替に関する著書、論文の著者。一九一四年死去。

 

ベイカー、エドワード(ノーマン)(BAKER(Sir)Edward(Norman))一八五七年誕生。インド文官、各局に勤務。ベンガル州庁の財務官、インド政府の財務官一九〇二ー五年。K.C.S.I.を受く一九〇八年。一九一三年死去。

[1]K.C.S.I.,Knight Commander  of the Star of Indiaの略。

 

ブランエート、ジェームズ・ベネット(BRUNYATE(Sir)JamesBenett)一八七一年誕生。インド文官に任官一八八九年。「副弁務官一九〇四年。国際アヘン委員会委員、上海一九〇九年。インド総督の立法評議会委員一九一〇~一七年。インド政府の財務局長一九一ー一七年、インド会員一九一七ーニ四年。K.C.S.Lを受く一九一八年。C.LE.を受く九一〇年。一九五一死去。

[1]CLE, Companion of the (Order of the)Indian Empire の略。

 

クルー(ロバート・オフリー・アッバートン・クルー-ミルネス)

(Creme(Robert offiey Ashburton Crewer-Milna)初代侯爵。一八五八年丹生。アイルランド概督一八九二ー五年。イギリス議長一九○五ー八年および一九一五ー一六年。

一九〇八年および一九二ー一五年。植民地大成一九〇八ー一○年。インド大臣一九一〇~一五年。文部大臣一九一六。パリ駐在大使一九二二ー八年。陸軍大臣一九三一年。侯爵一九一一年。K.G.を受く一九〇八年。秘密間官など。一九四五年。

[1]KG.,Knight the Order)of the Garter の略。イギリスのナイト爵最高の爵位。

 

カーゾン(ジョージ・ナサニエル)(CURZON(George Nathaniel)  ケドレストンの初代カーゾン侯時。一八五九年誕生。サウスポート区選出下院議員一八八六ー九八年。インド次官一八九一一二年。外務次官一八九五ー八年。インド副王兼総督一八九九一一九〇五年。国璽尚書一九一五一六年。外務大臣一九一九ー二四年。G.C.S.L’G.C.LE、枢密顧問官など。公爵一九二一年。一九二五年死去。

[1]G.C.S.L.,(Knight)Grand Commander of the Order)of the Star of India の略。 [2]G.C.L.E.,(Knight)Grand Commander of the Order)of the Indian Empire の略。

 

ダメポイ、マネクシイ・ビラムジー(DADABHOY(Sir)Maneckji Byramji)一八六五年誕生。弁護士資格を取得(ドルフMスプル法学)一八八七年。ボンベイ高等法院弁護士一八八七年。インド総督の立法評議会委員一九〇八ー二〇年、インド帝国銀行総裁一九二〇一三三年。評議会を動める一九二二ー三七年。詳議会会長一九三三ー六年および一九三七十四六年。インドの 財政委員会委員およびインドの通貨および為替に関する王立委員会委員。K.C. S. I, 一九三六年。K.C.I.E. 一九二五年。 C.I. E. 一九一一年。一九五三年死去。

[1] K.C.I. E., Knight Commander of the Order of the Indian Empire の略。

 

ドーキンス、クリントン・エドワード (DAWKINS (Sir) Clinton Edward) 一八五九年誕生。 ロンドンのインド省に勤務一 八八四年。国務大臣クロス(Cross)期の私設秘書一八八六年。 大蔵大臣ゴッシェン(Goschen)氏の私設秘書一八八九年。イン ド総督の評議会財務委員一八八九年。J・S・モルガン商会代表社員一九〇〇年。K.C.B.一九〇二年。一九〇五年死去。

[1] K.C. B., Knight Commander (of the Order) of the Bath の略。

 

フィラー、トーマス・ヘンリー(FARRER, Thomas Henry (Lord)) 一八一九年誕生。商務省動務一八五〇年。終身書記官一 八六五一八六年。公務に対して初代男爵一八九三年。一八九八年の『通貨の研究』を含めて、貿易および金融分野における多方 面の書物の著者。一八九九年死去。

 

ゴーントレット、(メイジャー)フレデリック(GAUNTLETT (Sir) (Mager) Frederick) 一八七三年誕生。インド文官に任官 一八九一年。ビハールに動務一八九三十七年。インド財務局動務一八九七年。各州の経理局長一九〇四一一〇年。インドの通貨 監督官並会計監査長官一九一二年一四年および一九一八ー二九年。退官一九二九年。 パティアーラ州の財務長官一九三〇一六 年。K. B.E.一九二三年。K.C.I. E. 一九二九年。一九六四年死去。

[1] K. B. E., Knight Commander of the British Empire の略。

 

ギラン、ロバート・ウッドパーン(GILLAN (Sir) Robert woodbura)一八六七年に生。インド文に一八八八年。 合州に動務一八八八ー一九〇七年。税務局書記官一九〇二年。政府財務官一九〇七年。通費監督官影会計監査長官一九一〇年。 インド政府の財務官一九一二年。インドの財政および通貨に関する王立委員会委員一九一三年。インド鉄道局員一九一四年、 総取一九一五ー一八年。C.S.L一九一一年。K.C.S. L 一九一六年。一九四三年死去。

[1]C.S.I., Companion of the Star of India の略。

 

ゴッシェン(ジョージ・ジョーキン) (GOSCHEN (RE. Hon. George Joachin)) ホークハーストの初代ゴッツェン子は、一八 三一年長生。フルーリングとゴッシェンの企業に入る。商務省次官。主計長官一八六ムー六年。ロンドン市退出下議員一八六 ミー八〇年。リボン選出議員一八八〇一五年。東エディンバッ選出議員一八八五年。子爵一九〇〇年。ランカスター王試問書」 八六六年。数貴法属総載一八六八ー七〇年。海軍大臣一八七一一四年および一八九五年。大蔵大臣一八八七年。主立済学会初 代会長一九〇三ー六年。一九〇七年死去。

 

ハンプロ、バラード・アレクサンダー(HAMBRO (Sir) Everard Alexander) イングリンド銀行理事。K.C. v.0. 一九〇八年。一九二五年死去。

[1]K. C. V.O., Knight Commander of the (Royal) Victorian Order の略。

 

ハミルトン、ジージ(フランシス)(HAMILTON (RE. Hon) Lord George (Francis)) 一八四五年誕生。アバューン初代公爵の三男。ミドルセックス州選出下院議員一八六八ー八五年。イーリング区選出下院議員一八八五ー一九〇六年。インド 官一八七四一八年。海軍大成一八八五十六年および一八八パー九二年。インド大臣一八九五ー一九〇三年。その後いくつかの王立委員会議長など。G.C.S. L 一九〇三年。一九二七年死去。

 

ハリソン、フランシス・ケイベル(HARRISON, Francis Capel)一八六三年誕生。インド文官に任官一八八四年。ベンガル動 務一八八四十九年。 財務局一八八九一一九一一年。通貨監督官、会計監査長官、試幣局長。C. S.I.一九〇九年。一九三八年死去。

 

インチケイブ(ジェームズ・ライル・マッケイ)(INCHCAPE (James Lyle Mackay)) 初代伯爵。一八五二年誕生。インド へ赴任一八七四年。商人、後に、カルカッタ、ボンベイ、カラチなどのマッキノン=マッケンジー商会社長とインドの多くの他 の事楽会社の社長。イベリア半島・東洋およびイギリス領インド汽船会社会長。多くの委員会委員など。インド総督の立法評議 会委員一八九一一三年。インド評議会委員一八九八一一九一一年。通貨問題に関するカンッフ (Cunliffe) 期委員会委員一九一八 年。伯爵一九二九年。一九三二年死去。

 

ロー、エドワード・フィッツジェラルド(LAW (Sir) Edward Fitzgerald) 一八四六年誕生。陸軍一八六八一八六年。財務および通商書記官として大公使動務一八八七年。ペルシャ、トルコ、ブルガリア、ギリシャなどに動務。インド総督評議会の財 務委員一九〇一四年。K.C.M.G. 一八九八年。一九〇八年死去。

[1] K.C. M. G., Knight Commander of the Order of) St. Michael and St. George の略。

 

リンゼイ、アレクサンダー・マーティン (LINDSAY, Alexander Martin) 一八四四年誕生。ベンガル銀行副総裁兼出納長一八九〇一一九〇四年。C.L.E.一九〇〇年。一九〇六年死去。

 

ラボック、ジョン(後にエイブベリーM)(LUBBOCK (RE. Hon. Sir) John) 一八三四年誕生。銀行家。ロバーツ=ラボック 商会社長。多くの王立委員会委員など。多くの著書、とくに動物と植物の分野における著者。銀行協会、ロンドン商楽会議所、 および統計協会を含む多くの協会の会長。学士院副会長。一九一三年死去。

 

マーシャル、アルフレッド(MARSHALL, Alfred (Dr)) 一八四二年誕生。ケンブリッジ大学、セント・ジョーンズ・カレ ッジの評議員一八六五ー七七年および一八八五ー一九〇八年。ケンブリッジ大学政治経済学教授一八八五ー一九〇八年。オック スフォード大学、ペイリオル・カレッジの評議員および講師一八八三十四年。ここで彼は、インド文官選抜候補生に対する政治 経済学の講義を行ない、したがってインドの経済発展とインドの通貨問題に生涯の関心を持ち続けた。一九二四年死去。

 

センターギュ、エドウィン(MONTAGU (Rt. Hon.) Edwin) 一八七九年誕生(初代スウェイズリング (Swaythling)卿の二男)。ケンブリッジシャー選出下院議員一九〇八ー二三年。大蔵大臣の国会書記官一九〇六ー八年。総理大臣の国会書記官一九 〇ーー〇年。インド大臣の政務次官一九一〇一一四年。ランカスター王領尚書一九一五年。大蔵省財務官一九一四一一六年。 軍大臣一九一六年。一九二四年死去。

 

モンターギュ、サムエル(初代スウェイズリング卿)(MONTAGU, Samuel) 一八三三年誕生。 サムエル・モンターギュ会社の銀行楽を一八五三年創立し、その代表となる。金と銀委員会委員一八八七一九〇年。ホワイトチャペル区選出下院議員一八 八五ー一九〇〇年。金および通貨に関する論文の著者。准男爵一八九四年。一九一一年死去。

 

ノースブルック(トーマス・ジョージ・ベーリング)(NORTHBROOK (Thomas George Baring)) 初代伯爵。一八二六年誕 生。長年、ポーツマス選出下院議員。インド省次官一八五九一六一年および一八六一一四年。インド総督一八七二十六年。海軍 大臣一八八〇一五年。男爵一八六五年。伯爵一八七六年。一九〇四年死去。

 

ロスチャイルド、アルフレッド・チャールス・ドゥ(ROTHSCHILD, Alfred Charles de) 一八四二年度生。 N・M・ロスチャイルド父子商会の代社員。イングランド銀行理事。一九一八年死去。

 

ロスチャイルド、ネイサン・メイヤー (ROTHSCHILD, Nathan Mayer (Lord)) 一八四〇年誕生。 フランクフルト、後に口 ンドンのネイサン・メイヤー・ドゥ・ロスチャイルドの孫。 初代男爵一八八五年。 N・M・ロスチャイルド 父子商会の代表社 員。一九一五年。

 

ソールズベリ(ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン=セシル) (SALISBURY (Robert Arthur Talbot Gascoyne-Cecil)) 三代目侯爵。一八三〇年誕生。スタンフォード選出下院議員一八五三十六八年。二代目侯爵を捲く一八六八年。インド大臣一八 六ハー八年。外務大臣一八七四一八〇年および一八九五年。総理大臣一八八五十六年、一八八六一九二年、一八九五ー一九〇二 年。一九〇三年死去。

 

サッカジー、ヴィサルダス (THACKERSEY (Sir) Vithaldas)一八七三年誕生。 ボンベイ最大の紡績工場の所有者、工場主 協会の議長。多数の会社の役員。立法評議会委員、カルカッタ一九一〇一一三年。 Knight 一九〇八年。一九二二年死去。

 

ウィルソン、ガイ(ダグラス・アーサー) フリートウッド(WILSON (Sir) Guy (Douglas Arthur) Fleetwood) 一八五〇年 誕生。主計長官局に勤務一八七〇年。種々の資格で陸軍省に勤務一八八三ー一九〇八年。陸軍主計総監一九〇四十八年。インド の最高評議会の財務委員一九○八一一三年。インドの立法評議会副議長一九一一一一三年。Knight 一九〇二年。K.C.B.一九 〇五年。K.C. M.G. 一九〇九年。G.C.I. E.一九一一年。一九四〇年死去。

 

訳者あとがき

 

本書は J. M. Keynes, Indian Currency and Finance, 1971 (1st ed., 1913) (The Collected Writings of John Maynard Keynes, Vol. 1) の邦訳である。

原著はケインズがケンブリッジ大学卒業後一九〇六ー一九〇八年のインド省勤務の経験に基づいて執筆した処女作の著書であり、今日にいたるまで金為替本位制に関する古典的な名著の地位を獲得している。

まず、第一章「ルビーの現状」においては、インドの銀本位制が銀の金に対する価値の低下から、その維持が困難となり、一八九三年に銀本位制が廃止されて以来、漸進的に金為替本位制に移行してきた経過が述べられている。

 

第二章「金為替本位制」においては、インドの金為替本位制が例外的な通貨制度でなく、むしろ、それが通貨制度発展 の主流にあることを、主として、ヨーロッパ諸国の通貨制度との比較検討を通じて主張している。インドは金為替本 位制を完全な形態で採用した最初の国である。

 

第三章「紙幣」においては、インドの銀貨は本質的には銀に印刷され た紙幣に等しい名目鋳貨であり、それは浪費的である等の理由から紙幣の使用が奨励されている。インドにおいて は、中央銀行が存在しないが、通貨量に弾力性を与えるためにも国立銀行の設立が必要であると主張している。

 

第四章「インドの金の現状と全通貨の提案」においては、インドにおける金具の鋳造とその国内流通が必要であるという意見に対して、ケインズは反対している。それは浪費的であるとともに、インドの通貨制度の安定性のためにも否定的な役割を果たすであろうというのが、その反対の理由である。

 

第五章「インド省手形と送金」においては、インド省手形がインド、ロンドン相互間の送金手段として重要な役割を果たすと同時に、これが金の移動とからみあって、 金為替本位制継持のための不可欠の手段となったことが巧みに説明されている。

 

第六章 「インド大臣準備金と現金残 高」は、本書で最も長編の章であり、ルピー準備とスターリング準備は金本位準備、紙幣準備、現金残高から構成さ れ、スターリング準備が金とロンドンでの収益資産の形態で保有されている状況や、危機の場合どのように変化した かが評価されている。またルビー銀貨の鋳造政策、流通ルビー通貨(銀貨と紙幣)の測定や適正スターリング準備の 推定などが興味深く展開されている。

 

第七章「インドの銀行業」では、インドの金融市場をヨーロッパ的市場と土着 市場に分け、前者に属する管区銀行(三行ある。以前は発券銀行であったが、その権限は一八六一年に廃止)と為替 銀行に特に力点を置いて論ずる。ケインズは、紙幣発行の管理が政府に握られ、中央銀行を欠くインドの制度を強く 批判する。最後に管区銀行の割引率を扱う。特にベンガル銀行の割引率の動向―一八九三ー一九一三年を図示し、またインドとロンドンの金利差(最低五パーセント)より生ずる資金補助にも関説する。

 

ケインズは、インドの金為替本位制は通貨制度の進歩の最先端であるが、紙幣発行の管理と金融市場に対する政府 の関係は変則的であるとし、中央銀行|彼のいう国立銀行設立の必要性を説く。その場合、規範をイングランド銀行でなく、ヨーロッパの中央銀行、特にドイッかオランダ、ないしはロシアの中央銀行を参考にすべきであると主張する。

 

本書はハロッドの表現を借りれば(『ケインズ伝』邦訳、改訂版、上巻、一八九九〇ページ)「この書物が第一級 のものであることは一般に意見が一致している。ことごとく論争的な彼の後の著作に納得しない人々は、好んでこれ を彼の最上の書物として賞賛する」し、「貨幣原理を実践に応用したものであると同時に、制度は実際にはいかに動くものかということの秘密を見抜く卓越した才能を示すものであった。」 また出版早々、 彼自身が編集委員を動める 『エコノミック・ジャーナル』(Vol. 23, Dec. 1913) のフォックスウェル (H. S. Foxwell)の書評でも、複雑なことがらを完全に熟達した薬で解明しているとされるなど、この書物には多くの賛辞が与えられてきた。

 

邦訳は、編集者序文、序文、登上人物、第一章~第四章までを則武が、第五章~第八章までを片山が担当し、相互に協議しあい、用語も統一を図った。また、神戸大学名誉教授、新庄博先生および同大学経済経営研究所、藤田正寛 教授に監因の労をわずらわした。深く感謝の意を表したい。

 

原著には若干のミスブリントが見出されるが、必要に応じて注記した。また訳文に言葉を補う必要のある場合には [ ]をつけ、必要があると思われる場合には訳注をつけた。

 

なお、paper currency, currency note, note の用語が頻出するが、明らかに銀行券を指す場合を除き一般に紙幣と訳し、currency reserve は paper currency reserve の簡略な表現であり、区別なく使用されているが、ともに紙幣準備と訳し、public deposits (たとえば一五〇ベージ〈原著、p.144y、一六七一八ページ〈原著 p. 160)> と government’s or government deposits (一三五ベージ〈原著 p. 130)は同一内容を指すが、前者は公的預金、後者は政府損金と訳した。また comptroller of (paper) currency は通貨監督官、(paper) currency office が paper) currency department は共に紙幣局と訳した。ルビーの単位としてラーク(一○万ルピー)、クロア( 一、○○○万ルピー)があるが、一部を除きはばルビー単位に改めて訳出した。

 

なおインドにおいては、たとえば一三七ページに見られるように、独自の位取りにより金額が表示される。1○○○以上の数字は下三桁のところでカンマが付され、それ以降は二桁ごとにカンマが付される――この点は都立大学教 投竹内幹敏氏の御教示による。記して謝意を表したいー。ただし本訳書においては、原著の通りに表示してある。

 

本書はインドの当時の貨幣・金融制度と為替の実態を詳論し、テクニカルな専門事項も数多く扱われているので、 思わぬ誤訳や不通訳を犯しているかもしれない。読者諸賢の御叱正をお願い致したい。 最後に、東洋経済新報社出版局の桃山剛志氏より賜わった編集上の植々の助力に対して謝意を表したい。

 

昭和五一年一二月一

訳者