若い読者のための経済学史 (Yale University Press Little Histories)

古典から最新の経済学に至るまで、夢中になって学べるような1冊

 

大学の講義でおなじみの古典的な経済学者から最新の行動経済学者まで、理論のエッセンスを網羅した入門書である。経済を説明するための視点が次々に提唱され、実践の失敗や改善を繰り返しながら新しい理論が生まれてきたことがわかるテキスト。現実をより良くするために、生産手段はどうするのか、政府がどう動くべきか、個人はどんな誘因で行動するのか、はては個人の行動の心理まで考えが及ぶ経済学の奥深さにふれることができる良書。

 

 

ナイアル・キシテイニー

訳月沢李歌子

 

A LITTLE HISTORY OF ECONOMICS

by NIALL KISHTAINY Copyright(C)2017 Niall Kishtainy Originally published by Yale University Press

Japanese translation rights arranged with

Yale Representation Limited, London

through Tuttle-Mori Agency, Inc., Tokyo

 

ナイアル・キシテイニー (著), 月沢 李歌子 (翻訳)
出版社 : すばる舎 (2018/2/26)S、出典:出版社HP

 

若い読者のための経済学史

[1] 冷静な頭脳と温かい心 [2] 空を舞う白鳥 [3] 神の経済 [4] 黄金を求めて [5] 自然の恵み [6] 見えざる手 [7] 穀物が鉄に出会う [8] 理想の世界 [9] 養う口が多すぎる [10] 世界の労働者 [11] 完全なる均衡 [12] 太陽を締め出す [13] 戦争の利益 [14] 騒々しいトランペット吹き [15] コークか、ペプシか [16] 計画する人 [17] お金を見せびらかす [18] 排水口のむこうへ [19] 創造的破壊 [20] 囚人のジレンマ [21] 政府の専制 [22] ビッグ・プッシュ [23] 経済学はすべてに通ず [24] 成長 [25] 美しい調和 [26] ふたつの世界 [27] 浴槽を満たす [28] 道化師による支配 [29] 貨幣錯覚 [30] 未来の予測 [31] 攻撃する投機家 [32] 虐げられている人々を救う [33] わたしを知り、あなたを知る [34] 破られた約束 [35] 消えた女性たち [36] 霧のなかの頭 [37] 現実世界における経済学 [38] 野獣化する銀行家 [39] 空高くそびえる巨人 [40] なぜ経済学者か

 

索引

 

装幀 遠藤陽一(デザインワークショップジン)

本文校正 神林邦明

 

・補足説明のカッコの使い分けについて

原著者による補足説明は、すべて丸カッコ( )を用いました。訳者および編集部による補足説明は亀甲カッコ[ ] を用い、カッコ内に多くの場合2行で表示、いわゆる「割り注」扱いにして区別しています。

・底本と原著者による若干の修正について

本書は2017年刊行のA Little History of Economicsの10訂版を底本としましたが、その10訂版刊行後に原著者キシテイニー氏から若干の修正が加えられたため、原著10訂版の表現と一部異同があることを、あらかじめおことわりしておきます。

(編集部)

 

ナイアル・キシテイニー (著), 月沢 李歌子 (翻訳)
出版社 : すばる舎 (2018/2/26)S、出典:出版社HP

 

1 冷静な頭脳と温かい心

この本を手にしたあなたは、特別な立場にある。まず、あなた(もしくは、あなたにこの本をくれた人)には、本を買う〈お金〉があった。貧しい国に住んでいれば、おそらくあなたの家族は、1日に数ドルで暮らしていることだろう。食料を買うのがせいぜいで、本を買うお金などないはずだ。たとえ本を手に入れたとしても、読むことができず無駄になるかもしれない。西アフリカの貧困国ブルキナファソでは若者の半数以上、女子の3分の2以上が字を読めない。この国の12歳の少女は、算数や国語を勉強するかわりに、1日がかりで家族が住む小屋に水を運んでいる。あなたは、自分や家族が特別お金持ちだとは思っていないかもしれない。だが、本を買って読めるということは、世界中の多くの人々にとっては《月へ旅行するようなもの》なのだ。

こうした巨大な格差に対して、好奇心をかきたてられたり、場合によっては怒りさえも覚えたりするような人は、これを経済学の問題として考えるかもしれない。経済学は、社会が資源をいかに使うかを研究するからだ。資源とは、パンや靴といった〈有用なモノ〉〔経済学ではこれを財(ざい)という〕をつくるのに必要な、土地や石炭、人や機械などである。

経済学は、「ブルキナファソの人々が貧しいのは、彼らのうちの少なくとも一部の人が怠け者だからである」という考えがまったくの間違いであるということについて、その理由を明らかにする。ブルキナファソの人々の多くは懸命に働いているが、モノの生産に向かない経済下にうまれたために貧しいのである。イギリスには子供たちを教育するための建物や本があり、また、教師がいる。それなのに、なぜ、ブルキナファソはそうではないのか。これはとても難しい質問で、だれも原因をつきとめることはできない。だが、経済学はそれを説明しようとする。

ここにこそ、わたしたちが経済学に魅了され、そうした問題について考えようとする、より大きな理由がある。経済学は〈生死にかかわる問題〉なのだ。こんにち、経済的に恵まれた国でうまれる子供が5歳を前にして死ぬことはほとんどない。幼児の死はまれであり、衝撃的な出来事である。それに対して、世界の貧しい国々では、食べ物や薬がないために、子供の10パーセント以上が5歳まで生きることができない。こうした国々では、10代まで生き延びられれば幸運と言えるだろう。

「経済学」というと、無味乾燥で、退屈な統計や数字ばかりだと思うかもしれない。しかし本当は〈どうすれば人々が生き存え、健康でいられて、教育を受けられるか、を考える学問なのだ。経済学は問いかける。幸せで満たされた生活を送るために必要なものを、いかにすれば手に入れることができるか。そして、それらを手に入れられない人がいるのはなぜか。こうした経済学の基本的な問題を解決することができれば、だれもがより良い生活を送る助けになるだろう。

こんにち経済学者たちは、学校を建てるための煉瓦や、病気を治す薬、人々が求める本などについて、独特な見方をする。こうした資源が「稀少であること」を論じるのである。1930年代に、イギリスの経済学者ライオネル・ロビンスは、経済学とは〈稀少性の研究〉だと定義した。ダイヤモンドや白いクジャクなど、珍しいものには稀少性があるが、経済学者たちは、家のなかや近所の店で容易に見つかるペンや本などもまた稀少なものだ、と考える。稀少というのは、すなわち〈数が限られている〉ということだ。一方、人間の欲望には限度がなく、できるなら新しいペンや本をずっと買い続けていたい。だが〈費用〉がかかるので、すべてを手に入れるのは不可能だ。そこで〈選択》が必要になる。

費用について、もう少し考えてみよう。ポンドもドルも大事だが、費用とは、それだけではない。たとえば、ある学生が、新年度にどの講義をとろうかと悩んでいるとする。歴史にしようか、地理にしようか。両方は無理で、どちらかを選ばなければならない。そこで歴史を選んだ。この選択によって生じる費用は? 選ばなかった地理だ。その学生は、砂漠や氷河や各国の首都について学ぶ機会を失ったのだ。また、新しい病院を建てるときは、どんな費用が生じるだろうか。 建設に使う煉瓦や鉄材の値段を合計することもできるが、なにをあきらめたかを考えれば、その費用とはたとえば、病院のかわりにつくることができた電車の駅ということになる。経済学者は、この見過ごされやすい損失を「機会費用(opportunity cost)」と呼ぶ。稀少性と機会費用は、経済の基本的原則だ。病院か電車の駅か、ショッピングモールかサッカー場かというように、わたしたちはどちらかを選ばなければならない。

よって、経済学は、必要性を満たすために稀少な資源をどう使うかを注視するのである。だが、それだけにとどまらない。人々が直面する選択がどう異なるかも問題になる。貧しい社会における選択は厳しい。子供に与える食べ物か、それとも病気の祖母に与える抗生物質か。アメリカやスウェーデンのような豊かな国における選択は、それほど厳しくないだろう。新しい時計と最新のiPadのどちらを買うかといったようなものだ。たしかに豊かな国でも、企業が倒産して従業員が職を失い、子供たちの服が買えない、というような深刻な経済問題は起こる。だが、生死の問題になることはあまりない。よって、経済学の重要な問いは次の2点となる。すなわち〈社会がいかにして稀少性による最悪の結果を克服するか、そして〈なぜ、ある社会ではそれがすばやく行われないのか、である。

良い答えを導きだすには、機会費用についてよく知るだけでは足りない。病院を建てるか、それともサッカー場をつくるか。iPadと時計のどちらを買うか。このような問題について正しい選択をしなければならない。良い答えを導きだすには、経済学のあらゆる理論を当てはめる必要があるし、さまざまな経済システムが実際にどのように働いているのかを深く知らなければならない。本書で歴史上の経済思想家に出会うことが、その良い〈出発点》になるだろう。経済学者たちは、驚くほど多種多様な説明をしている。

経済学者は、もちろん「経済」を研究する。経済とは、資源が使われ、生産が行われ、だれがなにを手に入れるかが決まることである。たとえば、工場主は布地を買い、従業員を雇ってTシャツを生産する。消費者である〈あなた〉や〈わたし〉は店に行き、ポケットにお金があれば、Tシャツなどを買う (「消費」する)。わたしたちは「サービス」も〈消費〉する。サービスとは、髪を切るなど、形のない財のことだ。こうした消費者の大半は、働いてお金を手に入れる労働 者でもあり、企業、労働者、消費者は、経済の主要な構成要素となる。

しかし、銀行や株式市場(いわゆる「金融システム」)も、資源がどのように使われるかに影響を及ぼす。銀行は企業に資金を貸す(「融資」する)。衣料メーカーが新しい工場を建てるために融資を受けてセメントを買えば、新しい橋ではなく、工場ができる。資金を調達するため、企業はときに株式市場で「株」または「株式」「イギリス英語ではshares アメリカ英語ではstockを売る。あなたが東芝の株をもっているなら、東芝という企業の一部を所有していることになり、東芝の業績が好調ならば、あなたも、より豊かになる〔原著が書かれたのは東芝の業績悪化が騒がれる以前〕。政府も経済の一部だ。政府は、新しい道路や発電所の建設に資金を投じ、資源がどう使われるかに影響を及ぼす。

次章では、経済の問題を最初に考えた古代ギリシャの人々を見ていくが、そもそも「経済学」という言葉は、ギリシャ語のoeconomicus (oikos =家あるいは共同体、nomos=法律あるいは規則)からうまれた。つまり、古代ギリシャの人々にとって、経済とは、家計が資源をどう管理するかを意味した。こんにち、経済学には企業や産業の研究も含まれる。

しかし、家計やそこに住む個人が基本であることに変わりはない。モノを買い、労働力となるのは、結局のところ個人だからだ。よって、経済学とは〈人間の行動の研究〉ともいえる。あなたが誕生日にもらった5ポンドをどう使うか。労働者が新しい仕事をその賃金で引き受けるのはなぜか。お金を節約しようとする人がいる一方で、ペットの犬のために立派な小屋をつくろうと大枚をはたく人がいるのはなぜか。

経済学者は、こういった疑問を科学的に解き明かそうとする。「科学」というと、人々に充分な食べ物があるかどうかということよりも、気泡の立つ試験管や黒板に書かれた数式を思い浮かべるかもしれないが、それもあながち間違いではない。なぜロケットが飛ぶのかを科学者が説明するのと同じように、経済学者は経済を〈説明〉しようとするのだ。科学者は、物理法則(あることがなにを引き起こすか)を見つけようとする。たとえば、ロケットの重量と打ち上げの高さとの関係などだ。

経済学者も、人口規模が食糧事情にどう影響するかといった経済の法則を探す。これを「実証経済学 (positive economics)」と呼ぶ法則に良いとか悪いとかはない。そこにあるものだけを説明する。だが、経済学はそれだけにとどまらない。幼年期を生き延びることができないアフリカの子供たちのことを考えてみよう。その状況を詳しく説明するだけで充分だろうか。そんなはずはない! このことに対して経済学者がなんの意見ももたないのであれば、それは冷酷としか言えないだろう。経済学の一分野である「規範的経済学(normative economics)」は、経済状態について、それが〈良いか、悪いか〉を語る。スーパーマーケットがまだ傷んでもいない食べ物を捨てれば、それは無駄だから悪い。富者と貧者の格差は、不公平だから悪い。このような判断をする。

正確な観察に賢明な判断がともなえば、経済学は、より多くの人が裕福に暮らせるような変化を起こし、より豊かで、より公平な社会をつくる力になる。イギリスの経済学者アルフレッド・マーシャル[1章]は、経済学者には「冷静な頭 脳と温かい心(cool heads, but warm hearts)」が必要だ、と言っている。そう、経済学者は、世界を科学者のように説明しつつも、苦しんでいる人々に共感を抱き、変化を起こそうとするのだ。

こんにちの経済学(大学で教えられている経済学)は、何千年もの人類の文明のうち、わりと最近にうまれたものだ。いまの世界のほとんどの国で見られる資本主義が誕生した頃、すなわち、ほんの数世紀前に現れたものなのだ。資本主義のもとでは、ほとんどの資源(食物、土地、人々の労働など)がお金で売買される。このような売買は「市場」と呼ばれる。また、資本をもつ資本家と呼ばれる人々がいる。資本とは、モノを生産するのに必要な資金や工場や機械だ。一方、労働者と呼ばれる人々は、資本家の工場で働く。いまでは当たり前のことのように思えるかもしれないが、資本主義が登場する以前はそうではなかった。食べ物は買うのではなく、みずから育てた。人々は工場ではなく、住んでいる土地を治める領主のために働いた。

経済学は、数学や文学と比べると、新しい学問だ。ほとんどが売買や価格など、資本主義について説明している。本書の大部分もそういった経済学について述べる。だが、それ以前の経済的な考え方についても見ていく。資本主義であっても、そうでなくても、すべての社会は〈どうすれば衣食足りるか〉という問題を考えなければならない。経済に対する考え方の変化と、経済そのものがどのように変わってきたのか、人々がこれまでどのように畑や工場で働き、料理の鍋を囲みながら、稀少性をいかに克服しようとしてきたのかを見ていこう。

ところで、経済学者たちは、注意深い科学者や賢明な哲学者のように、いつでも経済を説明し、判断をしているのだろうか。彼らは、経済発展の一方で置き去りにされた人々(とくに女性や黒人たち)の苦境を見過ごしてきた、と批判されることもある。これは歴史的に、経済思想家が社会でもっとも恵まれた人々だったからなのだろうか。21世紀初頭、銀行の無謀な行いのせいで、深刻な経済危機が起こった。それを予測できなかったために、多くの人が経済学者を責めた。経済学者の多くは、金融や巨大銀行が支配する経済で利益を得ている人々から影響を受けている。危機を招いたのはそのせいだ、とも考えられた。

「おそらく、経済学者には〈冷静な頭脳と温かい心〉以外に必要なものがあるのだ。それはたとえば、自己批判的な目や、自分の関心や習慣的なものの見方を越えた観点などである。経済の歴史を学ぶことは、その助けになるだろう。過去の経済思想家たちがそれぞれの関心と環境のもとで、どのようにその考えにたどりついたかを知れば、わたしたちの考え方がどうであるかを、より明らかにできる。だからこそ、経済思想を歴史とともに考えるのは興味深いことであるし、それはわたしたちがより豊かに生きることができる世界を創造していくためにも不可欠なのである。

 

ナイアル・キシテイニー (著), 月沢 李歌子 (翻訳)
出版社 : すばる舎 (2018/2/26)S、出典:出版社HP