経済学の歴史―市場経済を読み解く (有斐閣アルマ)

経済学の歴史を「市場経済」という観点から紐解いた1冊

 

「市場経済をいかにとらえるか」という現代的課題に従って、経済思想を再解釈し位置づけ直したテキストであった。近代化と市場経済の発展とともに展開してきた経済学を、各経済学者とその時代の課題との格闘として捉え、市場経済像の形成・展開という視点から描く、試みがなされていた。また、戦後半世紀を含む現代までをも対象に組み入れており、われわれの生活を取り巻く市場経済がどういった変遷をしてきたか実感できるテキストとなっている。

はしがき

この数年来、どうも経済学の評判が芳しくない。とはいっても、経済学が有効ではなくなったとか、経済学への関心が薄れてしまったということではない。むしろ、経済学への期待は大きいようにもみえる。書店に足をはこべば、経済学を手っ取り早く理解するためのハウツー本が山と積まれているのに驚かされる。いかにもお手軽に経済学をマスターできそうな表題があれこれと工夫されていて互いに競演している。経済学への欲求はけっして弱まっているのではなく、実は読む側の期待にマッチするものが少ないということなのかもしれない。「驚くほどの勢いで経済がグローバル化し、ヒトもモノもカネも、かつて経験したことのないほどのスピードと規模でいとも簡単に国境を越えている。その一方で、地球温暖化の危機が叫ばれ、対応を誤ればそれこそ人類の滅亡につながると指摘されている。あるいはまた、高齢化が進むなかで人々は将来への不安をぬぐい去ることができない。長引く不況のなかでの雇用不安もつのる。果たしてこの先経済はどうなるのか、生活は維持できるのか。かつてなく経済の問題が人々の生活感覚に届くようになっている。

しかし、ミクロ経済学の本を開いてみてもマクロ経済学の本を読んでみても、いま目の前で展開されている問題を見通す手応えのようなものがどうも感じられない、ということなのだろうか。アメリカの経済学者J.K.ガルブレイスは、かつてこう書いたことがある。「あるまとまった経済学の考え方――いうなれば体系―を評価する最後の決め手になるのは、それが時代の不安を浮彫りにしてくれるかどうかである」と。もしそうであるなら、われわれを取り巻く経済問題への確かな切り口を得るためにも、一見遠回りのようではあるが、「経済学の歴史」をたどってみるのが意外と有効なのではないだろうか。

なぜか。いますでにできあがっている経済学の体系では、捉えにくくなっている問題があるにちがいない。経済学がひとつの体系として体裁を整える過程でそぎ落とされてしまった熱気のようなものを知ることができれば、行儀よく体系化されてしまったひとつひとつの理論のそもそもの意味を確認することができるであろう。すでにできあがった経済学の体系だけでは、そうした意味づけを実感するのは難しいのではあるまいか。

「序章」でも触れてあるように、経済学は、それぞれの時代の抱える課題と向き合い、政策として何が必要であり可能であるのかを問うなかで形成され発展し、さらに理論としての体系を整えてきた。もちろん、抱える課題は時代により国によりそれぞれ異なるし、課題への取組み方や視点は人により立場により異なる。そのようにして形成され互いに競演してきた経済学を歴史のなかでたどることは、とりもなおさず経済学とは何であるのかを確認することでもあるし、経済学の有効性と限界を知ることにもつながる。

経済学は、それぞれの時代それぞれの国の特殊的な刻印を帯びていると同時に、時代と国を越えて現在にまで届く普遍的な問題を含んでいる。そのことを理解し現在と将来の問題を見すえる拠点を確かなものとするためにも、「経済学の歴史」をひもといてみることが、お手軽なハウツーものの経済書を読むよりもかえって早道であるかもしれない。

本書は、4人の分担執筆ではあるが、以上のような問題意識はそれぞれ共有している。もちろん「経済学の歴史」とはいっても、さかのぼればそれこそ聖書に始まり、古代、中世へとたどることもできるであろうが、本書で扱うのは、重商主義以降、現代にいたるまでのほぼ2世紀半である。近代化と背中合わせで市場経済が発展してきたこの時期の経済学を、市場経済像の形成・展開という視点から描く試みである。それぞれの時代の経済学が市場経済をどのようにとらえ、どのような政策を目標にかかげ、どのような理論体系を構想してきたのか、またそれらを支える経済思想がどのようなものであったのかを軸に説明が試みられている。

この2世紀半の経済学史のエッセンスは、せんじ詰めれば市場経済像の形成・展開の歴史として描くことができると思うからである。しかも、どのような市場経済像が構想され展開されたのかを、単なる辞典の項目のような細切れの知識としてではなく、全体の流れのなかでの意味づけがわかるように、つまりストーリーとして描くよう心がけたつもりである。また、通常の経済学史ではあまり扱われることの少ない戦後半世紀を含む現代までをも対象に組み入れてある。社会主義圏が崩壊して以降、いまや地球的な規模にまで広がり始めた市場経済がこれから先どのような方向にすすむのか、大いに興味をそそられる。本文だけでなくコラム欄をも含めて以上のような問題を読み解くヒントが読者に伝わってくれれば大変うれしいし、さらに興味をいだかれた読者は、巻末の「文献案内」を手がかりに市場経済の過去・現在・将来をより深く読み解く挑戦をしていただきたいと思う。

こうした形でこの本ができあがるまでには、有斐閣の伊東晋さんと柴田守さんに大変にお世話になった。お礼を申し上げたい。

2001年9月13日

著者

中村 達也 (著)
出版社 : 有斐閣 (2001/12/1)、出典:出版社HP

 

 

著者紹介

中村 達也(なかむら たつや)  担当:第5章、 Coluonus

1941年 秋田県生まれ

1971年 一橋大学大学院経済学研究科博士課程修了

現在 中央大学名誉教授(専攻:社会経済学)

主著 「市場経済の理論』日本評論社、 1978年

「豊かさの孤独」岩波書店、 1992年

「ガルブレイスを読む」岩波書店、2012年

 

八木紀一郎(やぎ きいちろう)  担当:序章、第2章、第4章第1節

1947年 福岡県生まれ

1978年 名古屋大学大学院経済学研究科博士課程修了

現在 摂南大学学長、京都大学名誉教授(専攻:社会経済学、経済学史)

主著 『経済思想』日本経済新聞社、 1993年(第2版、2011年)

「近代日本の社会経済学」筑摩書房、 1999年

「ウィーンの経済思想」ミネルヴァ書房、 2004年

 

新村聡(にいなら さとし)  担当:第1章

1953年 東京都生まれ

1982年 東京大学大学院経済学研究科博士課程修了

現在 岡山大学経済学部教授(専攻:経済学史)

主著 「経済学の成立:アダム・スミスと近代自然法学」御茶の水書房、 1994年

「アダム・スミスにおける公正と効率」

「岡山大学経済学会雑誌』第30巻第3号(1999年3月)

「スミスのステュアート信用論批判」

「岡山大学経済学会雑誌」第32巻第4号(2001年3月)

 

井上 義朗(いのうえよしお)  担当:第3章、第4章第2~3節

1962年 千葉県生まれ

1991年 京都大学大学院経済学研究科博士課程修了

現在 中央大学商学部教授(専攻:現代経済理論、近代経済学史)

主著 「エヴォルーショナリー・エコノミクス批評的序説」有斐閣、1999年

「二つの「競争」:競争観をめぐる現代経済思想」講談社、2012年

『「新しい働き方」の経済学:アダム・スミス『国富論』を読み直す』

現代書館、2017年

 

中村 達也 (著)
出版社 : 有斐閣 (2001/12/1)、出典:出版社HP

 

目次

 

はしがき

 

序章 なぜ経済学の歴史を学ぶか  経済学史の役割

1 経済学史は理論か歴史か

経済学史と経済学

経済思想との違い

2 なぜ経済学史を学ぶのか

経済学の課題を知る

思想と政策との結びつきを理解する

理論的潮流を複眼的にとらえる

 

第1章 市場経済の発展と古典派経済学

1 市場経済の生成と古典派以前の経済思想

市場経済の発展

重商主義とは何か

大貿易論争と貿易差額説

新しい自由貿易論

重農主義とケネー

『経済表」のしくみと役割

2 市場経済の発展と経済学の成立

アダム・スミスの時代と生涯

『道徳感情論』の主題

『国富論」における富

分業と交換と利己心

商品の価値と労働価値論

市場価格と自然価格

資本蓄積と3つの社会状態

資本投下の自然的順序と見えざる手

3 産業革命以後の古典派経済学の展開

人口論争とマルサス

リカードと2つの経済論争

『経済学と課税の原理』の特徴

比較生産

費説

セイの販路説とマルサスの有効需要論

リカード以後の経済学

J.S.ミルの経済学

古典派経済学の理論的・政策的特徴

古典派経済学の思想的特徴

古典派経済学の批判者リスト

 

第2章 市場経済の総体的批判  マルクスの経済思想

1 市場経済の道徳的批判から理論的批判へ

市場への愛憎

階級対立からする市場経済批判

階級関係は対立的か

初期の労働運動と社会主義

経済学批判という課題

唯物論

的歴史観

マルクスの経済学研究

2 市場経済批判の原理的展開

社会的個人と価値空間

労働価値説の意味

分業と市場経済

資本とは何か

資本関係と剰余価値

投下労働による価値規定

剰余価値成立の条件

蓄積過程の矛盾

矛盾の発現としての恐慌

社会的生産への移行規定

3帝国主義と社会主義  マルクスとエンゲルスの宿題

修正主義の登場

金融資本と組織された資本主義

帝国主義

ソ連型社会主義

個体的所有の欠如

市民社会の解体と再建

中村 達也 (著)
出版社 : 有斐閣 (2001/12/1)、出典:出版社HP

 

第3章 市場理論の形成  新古典派経済学

1 新古典派経済学とは何か

限界革命

限界革命の3大学派

1871年の意味

需給均衡図式

需要原理の一

元性

供給原理の多様性

2 普遍的市場経済論の展開  大陸の新古典派経済学

①「個人」の覚醒:メンガーの主観的価値論

方法論争

主体性の経済学

欲望から経済へ

価値

メンガー表

交換と価格

メンガー経済学の特色

②「自由な個人」の経済秩序:ワルラスの一般均衡理論

『要論』の世界

記号の定義

個人の行動式

社会全体の一般均衡

ワルラス経済学の特色1

ワルラス経済学の特色2

③大陸の新古典派における市場経済論の意義

個人の覚醒

自由な個人の経済秩序

陸学派の市場理論

3 経験的市場経済論の展開  イギリスの新古典派経済学

①市場経済論への不信:イギリス歴史学派

歴史学派

市場経済論への懐疑

②市場経済論の復活:マーシャルの産業経済学

マーシャル登場

4つの時間区分

一時的均衡と短期均衡

短期供給曲線

長期

均衡

長期均衡の含意

市場構造

内部経済と外部経済

古典的企業形態

歴史的限界

③イギリスにおける市場経済論の意義

政策科学

現実性か普遍性か

4 新古典派市場経済像の総括

市場一貨幣二元論

貨幣とは何か

完全

雇用

マルクスからケインズへ

 

第4章 現代の市場経済  経済学の革新

1 貨幣的経済論

貨幣数量説の直接・間接メカニズム

金本位制と銀行信用

ヴィクセルの累積過程

貨幣的均衡

ミーゼスとハイエク

シュンベーターの経済発展論

銀行信用がもたらす景気循環

2 市場理論の革新  不完全競争論から寡占論へ

20世紀の市場経済

所有と経営の分離

貨幣的経済論への影響

市場理論への影響

マーシャル再論

スラッファによる批判

J、ロビンソンの不完全競争論

ロビンソン補論

チェンバリンの独占的競争理論

企業像の転換

コースの企業理論

価格硬直

性と寡占論

スウィージーの屈折需要曲線

フル・コスト原則と市場理論の転機

3 市場の理論から市場経済の理論へ  ケインズ革命

繁栄の終焉

新古典派の限界

『一般理論』の出現

古典派の前提へ

古典派第1公準

古典派第2公準

第2公準の否定

非自発的失業の発生

古典派との相違

有効需要の原理

『一般理論』の市場前提

消費関数

投資と貯蓄の乖離

乗数効果の即時論的理解

乗数効果の波及論的理解

乗数と波及

サービス化は乗数を小さくするか

投資の本性

不確実性と不確定性

投資と資本の限界効率

古典派の利子論

利子と貨幣

流動性選好説

「一般理論」体系の要約

「市場−貨幣二元論」の克服

ケインズ政策とは?

ケインズの3階級認識

社会構造の経済的帰結

『一般理論』から現代へ

 

第5章 現代経済学における市場経済像

1 混合経済と経済成長下の経済学

ケインズ経済学の受容と新古典派総合

「総合」の不整合と破綻

「決定」の仮説

「一般理論」のミクロ的基礎

ケインズ経済学の長期動学化

ハロッド=ドーマー・モデル

ハロッドの不安定性定理

ソローの新古典派成長論

ケンブリッジ学派のマクロ的分配論

ケンブリッジ資本論争

2 成長経済の転換と反ケインズ経済学

フィリップス曲線の援用

サプライサイド・エコノミクス

赤字財政批判論

マネタリズムによる財政政策批判

k%ルール

合理的期待形成仮説

合理的期待形成仮説のパラドックス

リアル・ビジネス・サイクル理論

ニュー・ケインジアン・エコノミクス

ポスト・ケインジアンの動向

3 周縁からの経済学批判

ラディカル・エコノミクス

ヒエラルキーと公正への関心

ソシオ・エコノミクス

ホモ・エコノミクスを超えて

経済人類学

互酬・再分配・交換

内部組織の経済学

取引費用と市場・組織

エントロピーの経済学

「生きている系」と「開放定常系」

4 むすび:市場経済と制度をめぐって

レギュラシオン学派

比較制度分析

現代制度派

 

文献案内

事項・書名索引

 

 

人名索引

 

Column一覧

1 古典派経済学という呼称

2 社会主義と共産主義の違い

3 ドイツ社会政策学会とマックス・ヴェーバー

4 資本主義と恐慌

5 社会主義経済計算論争

6 異端の諸潮流

7 日本のマルクス経済学

8 一般均衡論のその後の展開

9 新古典派・パレート最適・厚生経済学

10 メタリズムとノミナリズム

11 「資本主義はその成功によって滅ぶ」

12 ケインズ経済学とIS-LM 表

13 計量経済学の展開

14 内生的成長理論の基礎

15 スラッファ体系と一般均衡論

16 A.センの厚生経済学批判

17 制度学派と現代の制度派

 

 

中村 達也 (著)
出版社 : 有斐閣 (2001/12/1)、出典:出版社HP

 

序章 なぜ経済学の歴史を学ぶか  経済学史の役割

「世論の変遷の検討は、人間の解放にとって、どうしても欠かせない予備的考察である。現在のことだけしか知らないことと、過去のことだけしか知らないことのいずれが人間をより保守的にするか、私にはわからない。」(J. M. ケインズ) 、 (宮崎義一訳「ケインズ全集第9巻 説得論 集』東洋経済新報社、1981年、 330 頁)

 

1 経済学史は理論か歴史か

経済学史と経済学

経済学史は、しばしば、経済史と間違えられる。しかし、経済の歴史と経済学の歴史は異なる。人間の生産・分配そして消費の活動を経済活動とよぶとすれば、人間は種として成立して以来、そうした活動を集団的に行ってきたであろうから、経済史の対象とする時間的範囲は広大である。それに対して、経済学の歴史のほうは、本格的な成立から数えれば二百数十年、それ以前の文献にさかのぼっても、たかだか 400年の歴史をもつにすぎない。400年というのは、16の文献が西欧で出始めているからであり、二百数十年というのは、フランソワ・ケネーの「経済表」やアダム・スミスの『国富論』が成立しているのが、18世紀の後半だからである。古代ギリシアの哲学者や中世キリスト教の教父、あるいは中国古典のなかに経済現象についての考察を探し求めることも可能ではあろうが、人々が行う経済活動の関連を、総体的に〈経済〉としてとらえる見方自体が近代において成立したものである。いいかえれば、経済学は、商業革命を経た西欧において、市場経済が従来の社会の伝統的な生産組織を再編成するなかで成立したのである。

日本の大学では、授業科目としての経済学史は、たいてい、経済史よりも、経済原論などの理論科目に近いとみなされている。

同じ教師が経済原論と経済学史の両方を担当することもある。経済原論などの理論科目が、1からはじまる積み上げ型のコースによって経済理論を学習する正攻法であるとすれば、経済学史は、その理論が生まれた歴史的背景や経済学者の人物像を語りながら、いわば楽屋のほうから経済理論を学習させる補完的なコースだと考えられているからであろう。

たしかに、経済学史の授業を通じてスミスやD.リカードについて知るならば、マルクス経済学の講義の理解に大いに役立つだろう。J.M.ケインズについて知るならば、マクロ経済学が何を課題にしているかがわかりやすくなるであろう。ミクロ経済学の入門的な学習に、W.S.ジェヴォンズ、C.メンガー、 L. ワルラスやA.マーシャルの名前を知ることが役立つとはいいきれないが、それでも、より進んだ段階での理論的探究のなかで、彼ら仕事が発想の源泉になっている事例を多数見いだすことができよう。

しかし、何にせよ、体系だった経済理論を学習するためであれば、正面の道は、系統だった講義を聴くか、すぐれた教科書を読むことである。いくら現代化したほうがいいといっても、経済学史の講義で、 P. A. サミュエルソンや J. E. スティグリッツのような現代の経済学者に、スミスやリカード以上の扱いをすることはできない。スミスやリカードは経済学が生まれつつあった時代に、経済学を定義し、経済学の思考と言説をつくりだした、個性をもった開拓者たちであった。それに対して、現代の経済学者は 職業的な学者集団の一員なのである。しかも、経済学史は、経済 学の理論の発展と変遷に焦点を当てるのであって、現在支配的な 理論から過去を裁断しようとするものではない。経済学を歴史的に発展した知識の体系として考察する経済学史は、理論の講義を単純に補完するだけではないのである。

経済学史の研究者のなかには、経済学史 経済思想との違いをその性質上、歴史科目であると考える人も多い。とくに、経済学史のなかの思想史の側面を重視する研究者はその傾向が強い。経済思想は、体系性と整合性をもった経済理論に先行し、人々の行う経済活動を経済主体と世界の関連のなかに意味づける。それは、社会的・歴史的状況を強く反映するものであり、また相互にその優劣を比較することが難しい。したがって、経済学史を思想の変遷とみなすならば、それは発展・進歩・完成といった価値づけを拒否した純然たる歴史になるであろう。

しかし、経済思想も、基礎的な概念群を数段の論理操作によって結びつけた理論的装置をもたなければ、さまざまな要素をもつ経済現象に統一的な説明を与えることはできない。経済思想が応えるべき時代の問題に対しても、社会集団や政府としてとるべき政策の体系が生み出されなければ、思想は個々人の主観的な世界観としてとどまるであろう。経済学は経済思想を根源におきながらも、理論と政策において具体化されることによって、経済現象の総体的な理解と時代の経済問題の解決という課題に応えようとして生み出された。したがって、この課題を基準にするならば、私たちは、過去の経済学者の理論と政策の形成に向けた営為を歴史的発展のなかで評価することができよう。また、この課題を現在でも共有する限り、過去の経済学説やそれをめぐる論争から学ぶことも可能である。

近年では、自然科学についても、単線的な進歩という見方が否定され、優劣を定められないパラダイムが対抗しあったり、理論の革命的な交替が起こりうると考えられるようになってきた。科学の発展をもたらすのは、既存の概念を精密にし、予測を検証するという通常の科学者の活動だけでなく、何が興味深い問題であり、またどのような見方が可能かについての科学者の思想にも依存している。経済学史を、経済思想よりも理論としての経済学の歴史であると考える場合でも、それをこうした意味での科学史と考えることは、むしろ自然である。経済理論、経済学は、歴史的なアプローチが適用される対象であって、それ自体が絶対的な基準ではないのである。

中村 達也 (著)
出版社 : 有斐閣 (2001/12/1)、出典:出版社HP

 

 

2 なぜ経済学史を学ぶのか

経済学史は経済学(理論)を歴史的に発展する知識の体系として理解する。いいかえれば、経済学(理論)に対する歴史的アプローチというのが経済学史である。それでは、そのような科目を学ぶことにどのような意義があるのだろうか。

第1には、経済学はどのような学問であり、何を課題にし、またどのように発展するかを、その歴史的発展自体を通じて知ることができるからである。法学や医学などと比べてみればわかるが、経済学はその歴史的発展自体によって自身を定義するような学問であって、自明の対象をもつ学問ではない。またそれをおさめて社会に役立てる専門職種(法学の場合は、弁護士・検事・裁判官などの法律家、医学 の場合は医者)が確定しているわけでもない。

一頃のベストセラーではないが、「経済学とは何であろうか」が常にくりかえし問題にされるような学問である。経済学史は、経済学がどのように生まれ、どのような人たちによってどのように発展させられたかを教えることによって、経済学とは何かという疑問に応えるである。

たとえば、本書の第1章では、社会の統合と再生産が市場経済によって行われることの認識とともに古典派の経済学が成立したことが論じられ、第2章では市場経済への批判がカール・マルクスの経済学を生み出したことについて、市場経済を計画経済に取って代えようとした社会主義との関連のもとで論じられる。さらにまた、個人の合理的な交換行動から市場経済を説明しようとしたジェヴォンズ、メンガー、 ワルラスや、市場経済のなかに、社会の有機的な成長をみようとしたマーシャルが第3章で紹介される。

 

図 0-1 経済学の流れと古典

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それに対して、第4章の主要登場人物であるケインズにとっては市場経済の変動と不均衡を生み出しているのは不確実性をもった世界のなかでの人間の行動であった。現代経済学の動向を概観する最終章も含めて、読者は本書によって、経済学は全体として近代の市場経済の機構とそのなかでの人間と社会を探究した学問であることを理解するであろう。

経済活動が、血縁・地縁の共同体、あるいは、政治的・宗教的支配の維持に従属していた社会においては、経済学は生み出されなかった。このような社会においては、経済活動は人に対する束縛と命令によって理解されるのであって、自由な経済活動自体のもつ意義が理解されることはなかった。西欧で経済学が生まれた18世紀の後半に幕藩制と身分制が支配した日本は、経済学的な思考の萌芽を幾人かの知識人の脳裏に生み出しながらも、ついに経済学を成立させることがなかった。明治維新の前後に経済学書の翻訳に取り組んだ福沢諭吉は、対応する概念がまったくない世界の言語で、市場経済の諸概念を表現しようとした苦労を「観念の形なき所に影の文字を求むるのは、あたかも雪を知らざる印度人に雪の詩を作らしむるが如く」であったと形容している。たしかに、貨幣、価格、所有といった経済現象に対応する概念はあったが、それを結びつけるべき、個人や社会、自由と権利に対応する概念が存在しなかったのである。

 

思想と政策との結びつきを理解する

第2には、経済理論の成立・発展過程をたどることによって、体系化された理論の学習では見えにくくなっている思想政策との密接な結びつきを理解することである。

経済学の蔑称としては、 T.カーライル作の、金銭欲と貧困についてしか語らない「陰鬱な科学」(ディズマル・サイエンス) が有名だが、それに対抗しうる美称として筆者が思い浮かべるのは、「世俗の哲学」(ワールドリィ・フィロソフィー)である。これをつくったのは、R. L.ハイルブローナーというアメリカの経済学史家である。彼は、金銭や労働にかかわる低俗さを捨てきれない「世俗の」という形容詞で「陰鬱」にあたる事象を残しながらも、「哲学」をいうことで評価を転換させている。近代の経済学は、概念と数量を操作するだけの科学ではなく、世界の見方、経済現象の定義と分類、そのなかでの経済主体の位置づけ、そして一定の基礎的な価値評価、つまりフィロソフィーを含んでいる。真善美といった高尚な観念を相手にするときにだけ哲学が必要なのではなく、人間の経済生活自体の理解のなかでこそ哲学的考察が必要であるというのは、スミス、 J.S. ミル、 マルクス、そしてケインズといった大経済学者たちの信念であった。また、幕末の福沢諭吉は、西欧の経済学が自由な個人を前提にし、そのもとで生じる秩序を論じていることを知って、これこそが未来の日本を導く思想であることを確信したのであった。

政策は、多くの経済学者の思索の出発点であると同時に目標でもある。たとえば、60歳を超えた宮廷医師ケネーが国家の経済循環のモデルに思索を集中したのも、道徳哲学の教授であったスミスが諸国民の富裕の差異の原因に取り組んだのも、自国の政府の政策形成に指針を与えるためであった。マルクスは社会主義に移行する基礎が資本主義の経済発展自身によって準備されていることを論証しようとしたのであるし、ケインズは金利生活者の利害に企業者および労働者が従属させられるような貨幣制度を打破しようとした。こうした政策的問題意識は、彼らが生みだした経済理論が後世の経済学者によって体系的に整理されたときには、捉えにくくなるのが通例である。しかし、政策的な応用にとどまらず、理論的発展を図ろうとする場合には、創始者のもともとの政策的問題意識を知ることは、現在の経済学者にとっても有益なガイドになる。

 

理論的潮流を複眼的にとらえる

第3には、異なる傾向をもった複数の理論的潮流が相互に競い合うことによって全体としての経済学が発展するという複数主義的かつ動態的な経済学の理解を得ることができる。

一国の経済は、市場だけをとっても、財市場、労働市場、金融 市場と異なる性質をもった市場によって構成され、また、資本家、地主、企業者、労働者、一般消費者、政府と異なる経済的利害をもったグループに分けられる。さらに、国際経済との関連で輸出産業と国内向けの産業に分かれるし、また世代や性別、身体的能力の差異によっても利害対立は起こりうる。もちろん、こうした経済内部の差異が、直接に経済学の諸潮流に結びつくわけではない。それでも、経済学の学派ごとによって重視する要素や関連は異なるし、また、学派ごとに異なる思想的立場や政策的方向性が経済のグループごとに親和度が異なってくることも当然起こりうるであろう。

現在の日本の経済学界では、理論的潮流としては、大きくいって、新古典派、ケインズ派、マルクス派が存在する。最近では、制度派や進化経済学など、この3潮流でカバーしにくいグループが現れてきたが、これが第4の極をなすのか、それとも3潮流の中あるいは中間に位置する支流になるのかはまだ確定しがたい。少し前までは、新古典派はもっぱらミクロ経済学、ケインズ派はマクロ経済学、マルクス派は歴史的観点をいれた資本主義分析というように棲み分けがはっきりしていた。しかし、合理的に期待を形成する経済主体の概念がマクロ経済学にもちこまれるやいなや、ケインズ的な政府介入に原則的に否定的な新古典派的なマクロ経済学が成立した。それに対抗するようにして、情報的な調整費用を取り入れて、貨幣の非中立性と非自発的失業を論じようとするニュー・ケインジアンが出現した。他方で、経済主体の合理的行動の帰結として均衡を論じていたミクロ経済学の世界にも、複数均衡を許容するゲーム理論や、合理性の限界、収穫逓増について議論が現れてきた。

さらにまた、数学を使用しない定性的構造分析を中心としていたマルクス経済学も、数理分析や計量分析と結合するようになった。最近では、労使(労働者と使用者)の「対抗的交換」の分析のほうが、労働価値説の維持よりも重要だとするマルクス経済学者も出現している。ケインズ的な成長理論にマルクス的な生産関係分析によって社会経済学的視野を与えたレギュラシオン学派の経済学も出現し、日本経済の分析をも1つのステップとして、制度的経済学の方向に進もうとしている。

こうした現在進行中の経済理論の動きを眺めると、複数の学派はそれぞれにそのコア(新古典派の場合は合理的行動、ケインズ派の場合は有効需要論、マルクス派の場合は労使の対立と妥協)を保持しながら、他派の理論的革新に影響されていることがわかる。こうした相互作用は、外見的には学派間の差異を縮めているように見えるが、同じ理論的ツールを用いる場合でも、それぞれの学派によって用い方も結果の解釈も異なっている。したがって、学派の独自性は相互作用の成果を基礎に、かえって強まる可能性もあるであろう。「経済学史においては、経済理論は絶対的な真理としてではなく、変化する社会状況、思想状況、そして政策的課題のなかで、さらにまた競合的な理論との関連で、常に歴史的に相対化されて取り扱われている。

こうした経済学の歴史を学ぶことによって、学問的発展自体によって定義されたその内容と範囲をつかみ、また、思想的・政策 的問題意識との関連を知り、最後に経済学の発展を複数主義的で動態的なものとして理解する。この3点を、筆者は経済学史を学ぶ意義として学校教師風に説明したが、ケインズは冒頭の引用文のように、もっと軽やかに言ってのけている。過去にとらわれるな、現在にとらわれるな、重要なことは精神の解放なのだ、と。

 

中村 達也 (著)
出版社 : 有斐閣 (2001/12/1)、出典:出版社HP