はじめての経済思想史 アダム・スミスから現代まで (講談社現代新書)

社会を豊かにするための経済学とは何か探る良著

本書では、「よいお金儲けをできるだけ促進し、悪いお金儲けをできるだけ抑制することで、社会を豊かにしようとする学問」として経済学が位置づけられており、その経済学に対するスミスやJ・S・ミル、マーシャル、ケインズ、マルクス、ハイエク、フリードマンといった学者の意見を体系的かつ簡潔にまとめたものであり、経済思想史の概観をつかむにはもってこいのテキストである。

はじめに

よいお金儲けと悪いお金儲け

「お金儲けは、悪いことですか?」

そう尋ねられたら、みなさんはどう答えるだろうか?経済学の父アダム・スミスならば、つぎのように答えるだろう。

「お金儲けは、よい場合と悪い場合があります。努力して他の人を喜ばせ、その結果としてお金を儲けるのはよいことです。一方、お客さんをだましたり、仲間と値段をつり上げたりして儲けるのは、悪いことです」

この答えは常識的であり、おそらく異論はないだろう。そして、このお金儲けの区別は、経済学とは何かを理解するのに役に立つ。よいお金儲けをできるだけ促進し、悪いお金儲けをできるだけ抑制することで、社会を豊かにしようという学問、それが経済学である。

経済学の始まりであるアダム・スミスは一八世紀の人なので、その歴史は二五〇年ほどである。その間、何人もの偉大な経済学者がいるし、経済のあり方も変わってきている。けれども、大きな問いは変わっていない。どうすればよいお金儲けを促進し、悪いお金儲けを抑制できるか、である。経済学の歴史は、さまざまな悪いお金儲けが力を持ってしまうたびに、それに対抗する手段を講じていくというかたちで展開されてきた、と言えるだろう。

現代的な言葉で言えばブラック企業ばかりとなり労働者階級が苦しんだ一九世紀には、会社のお金儲けのあり方を問い直す経済学が生まれた。また、庶民が豊かになり、貯蓄をしたい人は多いが、自分で事業を展開する意欲を持っている人は少ないという状態になった二〇世紀には、お金を持っているだけで儲かる利子という稼ぎ方を問い直す経済学が生まれたのである。

私は経済学の歴史を、やや単純化しすぎているのかもしれない。しかし、本書では、あえて経済学の歴史を一筋のストーリーとしてとらえたいと思う。なぜそうするのかというと、その一筋のストーリーから、経済学の歴史に一つの方向性を見出したいからである。

それは、よいお金儲けのとらえ方の変化である。経済学は、はじめにおいて、富を「持っている」人のお金儲けを、適切な競争のなかであるかぎり、よいことと考えていた。富を持っている人が自分の財産を賭けてお金儲けに挑戦する場合、慎重に持っている知識を活かす(無駄遣したりはしない)からである。だが、実際には、富を持っている人が、その富を適切に有効に活用するにふさわしい資質を持っているとはかぎらない。

経済学の歴史では、つねにそれが問題となった。そして、「富の所有者がお金儲けで活躍するのがよいこと」という考え方はだんだん退き、「富を活用する知識と意欲を持った人たちが活躍するのがよいこと」という方向へと進んできたのである。

 

思想史を頼りに今を考える

こうした歴史の大きな方向性をとらえることは、現在を生きるわれわれにとって、きわめて重要な意味を持つだろう。

例えば、二〇〇八年の投資銀行リーマン・ブラザーズの破綻を契機とする世界金融危機は、多くの人に「経済システムはこのままで大丈夫なのだろうか?」という疑問を抱かせた。お金を持っている人がお金を増やすマネー・ゲームに興じ、儲けるだけ儲けた後に最後に残った損失のツケを政府が肩代わりしたのだから、庶民の感覚からすれば「まとも」な経済ではない。なりふり構わぬ財政支出拡大と政府の借金肩代わりで何とか急場をしのぎ、一九三〇年代のような大恐慌にならず、経済は落ち着きを取り戻しているかのように見える。しばらく経ってみると、「まともではない!」と感じた違和感や怒りは、日常にかき消されてしまう。

しかし、ここで経済学の歴史的な方向性を思い出すべきだ。お金を持っている人が誰の役にも立たず、ただそれを増やすだけのお金儲けをすることは「悪いお金儲け」であり、経済学はこれを封じる方向で考えてきたのだ。世界金融危機以前に我がもの顔で巨額のお金を動かし、莫大な報酬を得ていた金融エリートたちは、人びとの生活をよりよいものにする知識を持っているわけではないという点で、もはや主役ではないはずの人びとだったのだ、と。

われわれはどういう時代に生きていて、どのような方向に向かえばよいのか?それを考える人びとにとって、思想史ほど頼りになるものはない。これまでどのように考え、どういう方向に向かっているのかを知ることで、はじめてエセ常識や惰性に抗して、ほんとうの意味で「考える」ことができるのである。

億単位のお金をひらひらと動かす金融エリートたちゃ、証券会社から上等の扱いを受ける大金持ちたちなど、普通に働くわれわれ庶民には縁のない世界だと思われるかもしれない。だが、富を持っている人(所有者)と富を活用する人(労働者=大きな富を持たない庶民)の関係は、普通に働く人の生き方に大きな影響力を持っている。

電機業界で働く普通の会社員を考えよう。会社の従業員であれば、働くことによって会社の所有者(株主)の利益に貢献している。けれども、普通はそれは意識されない。働くことは自分の生活のためであり、お客様が喜ぶ電機製品を生み出して、社会の利益に貢献していると思うのが普通である。例えば、高度成長期にテレビ・冷蔵庫・洗濯機を世に送り出した電機会社の社員は、まさに人びとの生活をよりよいものにする最前線にいるという誇りと充実感を持って働けたことだろう。

では、現在はどうであろうか?表面的に見れば、高度で便利な電機製品をつぎつぎと世に送り出して、お客様の喜びを生み出している。また、消費者と会社の利益だけでなく、社会に責任を負った企業であるとして、CSR(Corporate Social Responsibility:企業の社会的責任)をアピールしてもいる。だが、自分たちの働きが真に人びとの生活をよりよいものにしているという実感を持てるだろうか?高画質の大画面テレビを売り出せば、「おっ、きれいだね」と少しぐらいは驚いてくれるかもしれない。しかしそれは一瞬のことであり、別にテレビなど昔のままでも生活の質は変わらないのである。電機会社の人も生活者であり、それぐらいのことはわかっている。ほんとうはもっと別の、真に生活をよくする電機製品作りをしたいと心の底では思っているに違いない。でも、デジタル放送だ、4Kだと技術を更新することで得られる利益―強制スクラップによる需要創出―には抗うことはできない。

私の仕事は、消費者に無駄に高度な製品をつかませることではない。私の仕事は、ほんとうの意味で生活をよくする製品を作ることだ。だから、会社をその方向に向けていこう。そう言いたくても言えないのはなぜか?なぜ、社会に向き合う心を偽らなければならないのか?あるいは、偽っていることすら忘れなければならないのか?その根源には、会社はその所有者株主の利益のための器であるという大前提がある。現状、働く者はその器のなかでしか働けないのである。

富の所有者の「利益を上げるべし」という指令と、富の活用者=働く者たちの価値を生み出す力の関係。ここが経済学の最前線である。思想史はこの最前線にいたるまでの道筋を照らす。それは、富の所有者のお金儲けが主役であった経済学のはじまりから、富を活用するにふさわしい者こそが主役になっていく、対して所有者が主役から後退していく、という大きな流れを持っている。この経済思想史の大きな流れを知ることは、われわれがこれからを考えるための糧となるだろう。

中村 隆之 (著)
出版社 : 講談社 (2018/6/21)、出典:出版社HP

 

 

「所有者が主役から降りていく」歴史

私が経済学の歴史のなかで採りあげる経済学者は、スミス、J・S・ミル、マーシャル、ケインズ、マルクス、そしてハイエクとフリードマンである。大まかな筋道を、最初に示しておこう。

スミスは、資本主義経済を、著しい格差があり、報酬と努力の比例性という観点からは公平ではないけれども、肯定的に評価した。働いて価値を生み出す力と、富の所有者がどこに資源を投下するかを決定する力が、両輪として作用して豊かさをもたらす経済を考えていたからである。だが、彼は、お金儲けや格差を無条件に肯定したのではなかった。スミスの思考をたどれば、資本主義経済を肯定するためのーつまりお金儲けが「よいお金儲け」であるための―道徳的条件があったと読み取ることができる。このスミスの条件が、その後の展開を理解するカギになる。

ミル、マーシャルは、お金儲けがスミスの道徳的条件を逸脱し、労働者をフェアに扱わなくなった現実に直面した。そこで、彼らは、労働者をフェアに扱うような事業経営者の像を示した。道徳的な資質を持った人間にお金儲けの主役になってもらうことで、スミスの条件を回復しようとしたのである。

ケインズは、「お金を持っている人」と「お金を実際に活用する人」が別々になった世界に直面した。資産所有者のお金儲けは、事業経営者のお金儲けとは質が違う。事業経営者は働く力を引き出して価値を生み出し、お客さんが喜ぶことを通じてお金を儲けるけれども、資産所有者のお金儲けはそうではない。そのような世界では、スミスの条件が満たされない。資産所有者のお金儲けが、事業経営者のよいお金儲けを邪魔する。そこで、ケインズは、資産所有者のお金儲けが課する制約を除去するために、大胆な改革―ケインズ政策―を提唱した。このケインズの処方箋も、「よいお金儲け」の条件を作ることであり、スミスの道徳的条件を回復するためと位置づけることができる。

つぎに採りあげるマルクスは、ミル、マーシャル、ケインズと同じく、スミスの道徳的条件を回復しようとした経済学者である。マルクスは一九世紀の人であり、ミルとほぼ同時代を生きた。ケインズの方がマルクスより後―マルクスが一八八三年没、ケインズが同年の生まれ―である。にもかかわらず、叙述の順序を逆にしたのは、マルクスのなかにミル、マーシャルおよびケインズの問題意識を克服するヒントが見出せるからである。

マルクスは、スミスの条件が満たされなくなる究極の原因は、「私有」財産権にあると考えた。その「好き勝手に使ってよい」という権利が、社会性を無視して暴走するからである。マルクスは、「私有」を乗り越えた先にあるものとして、「個人的所有」という概念を提起している。これが、所有者が主役から降りた世界のあり方を示している。

本書では、スミスからミル、マーシャル、ケインズ、マルクスとつづく叙述で、「所有者が主役から降りていく」という経済思想史の大きな流れを掴む。しかし、読者は疑問に思うかもしれない。ほんとうにそうした大きな流れで掴んでいいのだろうか、と。

その疑問を整理すると、つぎのような考えであろう。働く者たちを重視する社会主義も失敗した。雇用保障や機会均等を政府の力で作り出そうとする福祉国家体制も、一九七〇年代に経済パフォーマンスの低下に直面して失敗した。そして、その反省の上に立ち、一九八〇年代以降、市場を重視する新自由主義(ネオ・リベラリズム)が時代の趨勢となっている。労働者の権利や安定よりも、資本の自由な利益追求を肯定することが、格差はあっても活力があり、成長が望める経済を作り出す。この新自由主義の経済観こそ、現在の常識なのではないか?

そのような通説的な「常識」は、たしかに存在する。その「常識」の立場からすれば、所有者は後退などしていないし、するべきできでないということになる。例えば、近年、声高に叫ばれるようになった「コーポレート・ガバナンス」という概念も、会社は所有者である株主のものであるから、株主の利益に反するかたちで会社が資源を浪費させないために、ガバナンスが必要なのだという意味で使われることが多い。そしてそれは、無駄が多く、また都合の悪い情報の隠蔽などをくりかえす悪い会社の体質を変えてくれる「正しい」ことであると、なんとなく受け止められている。「常識」の力は強い。

しかし、この「常識」は、イデオロギー的な潮流が生み出したものに過ぎない。経済学という学問の根底に流れる基調は、やはり「所有者が後退していく」という方向に向いている。だが、そう主張するだけでは、もちろん読者は納得できないだろう。そこで、「所有者が後退していく」という流れに反対した経済学者―今日の「常識」を作り出した経済学者でもある―の思想にも分け入り、私の描く経済思想史のなかに位置づける必要があるだろう。

そこで採りあげるべきは、自由主義的な経済学を主導したハイエクとフリードマンである。

ハイエクは、分散した知識の利用という観点から、自由な市場経済の重要性を説いた。アイディアはどこに存在するかわからないのだから、それぞれが持っている知識を活用する自由な機会が重要であり、そのためには自由競争市場とそれを支える私有財産権という制度が必要という考え方である。この制度は人間が頭で考えて作ったものではなく、自生的(自然発生的)に生まれた秩序である。この秩序を大事にすることこそが、長期的に見て経済を繁栄させ、われわれを豊かにする。だから、経済に人為的に介入したり、理性で制度設計をしたりしてはならない、というわけだ。

このハイエクの立場からすると、所有者は主役から降りてはならない、ということになる。なぜなら、所有者=私有財産権者こそが、知識を活用するためのもっとも責任ある行動をとるからである。自分の財産は慎重に使うが、預かり物の財産はそれほど慎重に使うわけではない、というわけだ。だが、この所有者に関する前提は、いまの現実に合っているだろうか?私はもはや主役ではないはずの所有者に、無理に主役に返り咲くように要請しているように見える。

ハイエクの自由主義が知識論や自生的秩序といった概念に支えられた―思想的な基盤が結構練られた―考えであったのに対して、フリードマンの自由主義はそうでもない。しかし、その「市場は善、政府は悪」と断じる姿勢―私はこれを「市場主義」と呼ぶ―は、歯切れがよく、現実を動かすには大きな力を持った(そして未だに「常識」を支配している)。けれども、「市場主義」という単純思考は、問題の本質から目をそらす危険なものである。そのことを、日本の会社本位主義の問題に対する「市場主義」の立場からの処方を考えてみることで、明らかにしよう。

ハイエクやフリードマンは、「所有者が主役から降りていく」という経済思想史の方向性に合致しない経済学者であり、彼らは本流ではない。それが私の位置づけである。

では、経済学の本流は、最前線において何を考えているのか?それを明らかにするために、現代の経済理論(組織の経済学)の到達点を説明する。組織の経済学において、所有権者が絶対的な支配者であるという考え方はもはや採られていない。そのことを、会社の所有権者である株主の地位から見よう。

そして、最後に、その到達点―「一応の株主主権」―は、本書の示す経済思想史の方向性―所有者が後退していく―を考えると、乗り越えられるべきものであることを示す。会社の富は、株主の私物ではない。その富は、それを活用する知識と意欲を持った現場の人びとに託されるべきなのである。

富を「資本」として集中させ、それを事業活動の拠点とするやり方は、今後も変わらないだろう。その事業の最終責任者は、もはや事業に直接関係していない「所有者」ではありえない。事業が社会性を帯びているなら、その責任とは損害を引き受けることだけではないからだ。直接関係のない人間に、社会的な責任を負わすことはできない。ならば、事業に直接携わる人に富を託し、富が社会のなかで適切に活用されたことを示す責任を負ってもらうしかない。

私が本書で明らかにしたいことは、経済思想史が示している大きな方向性と、その方向性が指し示す資本主義経済の未来である。

 

中村 隆之 (著)
出版社 : 講談社 (2018/6/21)、出典:出版社HP

 

目次

はじめに

よいお金儲けと悪いお金儲け/思想史を頼りに今を考える/「所有者が主役から降りていく」歴史

 

第一章 アダム・スミス―資本主義の道徳的条件

資本主義と道徳性・公正さの両立/アダム・スミスの生涯/富める国とは何か―重商主義への疑問/国を富ませる原理1/自由競争市場の公正な評価が庶民の力を引き出す/「共感」が形成するモラル―『道徳感情論』/お金儲けの道と徳のある生き方は両立する/国を富ませる原理2―「見えざる手」が資源を有効な方向に向かわせる/資本主義経済の「不公正」はどこまで認めるべきか?/利子や地代が正当であるための条件/全体の富裕化/強者と弱者の共存共栄/資本主義の道徳的条件

 

第二章 J・S・ミルとマーシャル―労働者階級への分配と成長

満たされない道徳的条件/J・S・ミルの生涯/労働者階級の貧困/自然科学的なリカードの分配論―メカニカルな経済観/人間科学的なミルの分配論―「労働者階級の貧困」を解決するための分配/スミスの資本主義の道徳的条件とミルの分配論/アルフレッド・マーシャルの生涯/成長論をめざすマーシャルと静態均衡論のワルラス/成長論のカギとなる第四の生産要素「組織」/「経済騎士道」と「人生基準」が有機的成長を支える/ミル=マーシャルによる資本主義のあるべき姿

 

第三章 ケインズ―「金融」が資本主義を歪める

利子と貯蓄の常識に挑戦/ジョン・M・ケインズの生涯/金本位制復帰問題/「金融」と「産業」、どちらの利害が重要か/「金本位制」への辛辣な批判/「投資家」と「企業家」/ケインズの特徴/従来の経済学の論理を否定―ケインズ『一般理論』/流動性選好理論と不確実性/「金融」が「産業」を乗っ取る投機資本主義/ケインズの不確実性論と現代の経済学/ケインズ政策の真の意味

 

第四章 マルクス―「私有」を問い直す

マルクスは生きている/「私有財産権」は誰のための権利か?/「私有財産権」を乗り越えて、新しい経済体制へ/「私有財産」の意味は変質する/近代市民社会の変質としての資本主義/資本主義の先にある「individualな所有」/個人的所有の可能性/ザスーリチへの手紙に見る「individualな所有」/「私有財産権」から、富を活用者に託す社会へ

 

第五章 ハイエク―「私有財産権」の絶対性

経済思想史の傍流としてのハイエク/フリードリッヒ・A・ハイエクの生涯/社会主義経済計算論争から見る市場の意味/自生的秩序への信頼/「社会正義」の追求は、私有財産権を危うくする/自由を守るための「法の支配」/ハイエクは「保守主義」ではない/ケインズはハイエクの『隷従への道』を、どう評価したのか?/ハイエクにおける私有財産権の絶対性

 

第六章 フリードマン―「市場主義」の扇動者

現実の政治のヘゲモニー/「市場主義」/現実の政治は「薄っぺらい思想」で動く/「市場主義」の扇動者、フリードマン/「市場主義」で見る差別問題/日本の会社本位主義の問題――「市場主義」と「民主主義」/ナイトのフリードマンへの態度ー「市場主義」は真の自由主義ではない/「市場主義」は、スミスを継いでいない

 

第七章 組織の経済学―現代の経済理論における株主の位置づけ

経済思想史をふりかえる1―「よいお金儲け」のために/経済思想史をふりかえる2―知識を創造し、活用する現場へ/現代における所有/株主の地位の後退と強化/経済理論における株主主権論―その通説的な論理/通説的な株主主権論の欠陥/従業員組織に支配権を委ねることのマイナス面/一応の答えとしての株主主権―利益を外に報告する/「一応の株主主権」を超えて/スミスにはじまり、スミスに戻る

 

あとがき

中村 隆之 (著)
出版社 : 講談社 (2018/6/21)、出典:出版社HP