開発経済学の限界とは何か――RCT批判と外的妥当性問題とエビデンス(開発経済学は死んだか?)
開発経済学の反省
開発経済学はいま、外から一方的に批判されているというより、内側から自分自身を点検し始めているのではないかと思います。しかもその点検は、分野の周縁にいる批評家の不満としてではなく、この二十年で分野の中心に据えられてきた方法そのものをめぐって起きています。だからこそ、ここで進んでいるのは単なる「RCT論争の続き」ではありません。むしろ、開発経済学が自らの成功の意味を問い直す段階に入った、と捉えたほうが自然です。
開発経済学は、どのように「成功」したのか
実験は分野の中心に置かれる
その転換を象徴するのが、2020年7月の American Economic Review です。この号には、Banerjee の “Field Experiments and the Practice of Economics”、Duflo の “Field Experiments and the Practice of Policy”、Kremer の “Experimentation, Innovation, and Economics” が並びました。そこではフィールド実験が、単なる因果効果の識別技法としてではなく、政策形成への接続、現場の文脈理解、実務家との協働、そして試行錯誤の反復を可能にする方法として提示されていました。開発経済学はこの二十年で、貧困や教育や保健を論じる分野であるだけでなく、「厳密な知識」をどうつくるかをもっとも積極的に更新してきた分野になったのです (Banerjee, 2020; Duflo, 2020; Kremer, 2020)。
しかし、その成功は別の問いも生んだ
ただ、ある方法があまりにうまく機能し、あまりに多くの研究者・資金・評価基準を引き寄せるようになると、次に問われるのは「その方法で何が見えるか」だけではありません。「その方法のせいで何が見えなくなるのか」が、どうしても問題になってきます。開発経済学の自己反省は、この成功を否定するためのものではありません。むしろ、成功の副作用を自覚するところから始まるものです。
自己反省は、反実証主義ではない
批判は「実証」ではなく「特権化」
ここで重要なのは、代表的な批判者たちが実証研究そのものを否定しているわけではない、という点です。Deaton は、RCT は有用な知見を生み出してきたが、他の実証手法に対する固有の優位を持つわけではなく、「gold standard」として扱うべきではないと論じました (Deaton, 2020)。同じ流れのなかで Ravallion も、RCT への無条件の選好に疑義を呈し、研究費用や実際の政策評価の条件を考えれば、観察データに基づく研究のほうが高価なRCTより真実に近づくことすらありうると指摘しています (Ravallion, 2020)。ここで批判されているのは、実証研究そのものではなく、特定の方法が制度的に特権化され、問いより先に方法が来てしまうことです。どの方法が優れているかは一般論では決まりません。どの問いに対して、どの条件のもとで、その方法が最も適切なのかによってしか決まらないのです。
「厳密さ」への依存そのものを疑い
この批判をさらに先へ進めたのが Pritchett です。彼は、“rely (only) on the rigorous evidence” という発想自体が bad advice だと、かなりはっきり述べています (Pritchett, 2024)。その核心は単純です。ある場所で厳密に推定された平均効果が、別の制度環境や別の人口構成のもとでもそのまま成り立つ保証はありません。したがって、「厳密さ」は意思決定の必要条件の一部にはなっても、十分条件にはなりません。外的妥当性を十分に考えないまま「厳密な証拠」だけに依拠するのであれば、その態度は科学的というより、むしろ視野が狭いと言わざるをえません。
ここで自己反省は、より深い水準に入っていきます。問題は、証拠が足りないことではありません。問題は、何を証拠と呼ぶかのルールが狭くなりすぎていないか、ということです。平均処置効果、再現可能性、識別の明瞭さはもちろん重要です。しかしそれだけでは、制度の摩擦、政治的抵抗、実装上の逸脱、研究対象そのものの変化といった問題は十分に捉えられません。自己反省とは、データを捨てることではなく、データが届かない領域を意識化することだと思います。
いま問われているのは、方法だけではありません
世界の側が変わってしまいました
この自己反省がいま起きているのは、単に方法論争が成熟したからではありません。世界の側が変わってしまったからです。Rodrik は、歴史的には工業化が貧困削減の主要ルートだったが、現在の技術環境とグローバル環境のもとでは、その古典的なルートはそのままでは使えず、これからの成長は小規模でインフォーマルな企業の生産性向上を通じてしか実現しにくいと論じています (Rodrik, 2021)。さらに彼は2024年に、気候変動、中間層の停滞、行き詰まる開発戦略、そして既存のグローバル化の崩れという四つの大きな課題の前で、経済学者は確立された思考様式から離れ、新しい現実に適応しなければならないと述べました (Rodrik, 2024)。
この変化は、研究デザインの好みの問題ではありません。かつての開発経済学は、成長、貧困削減、人的資本形成を、かなり素直な連鎖として描くことができました。ですが現在は、成長の担い手そのものが変わり、フォーマルな産業化の余地が狭まり、気候危機が開発の時間軸を圧縮しています。そのとき、「どの介入が平均的に効くか」という問いだけでは足りません。必要なのは、どんな世界に対して、どんな理論と方法の組み合わせがなお有効なのかを、もう一度組み直すことです。
分野の外枠そのものが揺らいでいる
Stiglitz の議論は、この自己反省を国際制度のレベルにまで押し広げます。彼によれば、持続可能な開発と気候対応のために必要な投資を実現するには、新興国・途上国の財政余地と政策余地を拡大しなければなりませんが、現行の国際貿易・金融アレンジメントはその目標にむしろ逆行しています (Stiglitz, 2023)。また彼は、長らく前提とされてきた「国境なき世界」というビジョンはもはや信頼できず、グローバル化の失敗を正面から総括する必要があるとも述べています (Stiglitz, 2022)。ここで問われているのは、個別の政策評価の精度だけではなく、政策が埋め込まれている制度環境そのものです。
Kanbur の “The End of Development Economics” は、さらに挑発的です。彼は、過去数十年にわたる所得水準の上昇と、経済学方法論の全般的な均質化のために、development economics を economics 一般から区別する理由はますます擁護しにくく、不要になりつつあると主張します (Kanbur, 2024)。この挑発が示しているのは、分野の死ではありません。むしろ、開発経済学がかつてのように「特殊な対象を扱う特殊な下位分野」として自分を定義し続けることが難しくなった、という事実です。自己反省とは、方法を点検することでもありますが、それ以前に、分野の境界線そのものを引き直すことでもあります。
それでも、開発経済学の成果は消えない
成功を帳消しにするものではない
ここまでの議論だけを見ると、開発経済学がどこか行き詰まった学問のように見えるかもしれません。ですが、私はそうは思いません。Banerjee、Duflo、Kremer が示したように、実験的アプローチは、因果識別だけでなく、文脈理解、政策との接続、分野横断的な協働、そして迅速な学習を可能にしてきました (Banerjee, 2020; Duflo, 2020; Kremer, 2020)。開発経済学はこの二十年で、「何が効くのか」を以前よりはるかに細かく語れるようになり、多くの介入の設計改善に実際に寄与してきたのです。これは否定されるべき成果ではありません。
ただし、その成果を認めることと、その方法を無条件に特権化することは別です。ここで必要なのは、成功の物語を単純化しないことだと思います。実験は強力な道具ですが、万能の道具ではありません。観察研究には限界がありますが、それゆえに不要なのでもありません。理論はしばしば粗いかもしれませんが、それでも問いを立てるうえで不可欠です。質的研究は数量的に一般化しにくいかもしれませんが、何が測られ、何が最初から測られていないのかを暴く力を持っています。自己反省とは、方法間の戦争ではありません。方法の序列を固定化せず、問いに応じて組み合わせを変える感覚を取り戻すことです。
方法を捨てることではなく、方法を問いに従属させ直すこと
開発経済学の自己反省とは、実証の放棄でも、RCT批判の流行でもありません。それは、分野の中心で標準的方法として受け入れられた実践を、あらためて問いの側から吟味し直すことです。Deaton と Ravallion は、方法の特権化への警告を与えました。Pritchett は、「厳密さ」だけに依拠する意思決定の危うさを示しました。Rodrik と Stiglitz は、世界経済の構造変化そのものが、従来の開発戦略や政策思考を不十分にしていると論じました。Kanbur は、その結果として、development economics という下位分野の自己定義自体が揺らいでいると述べました (Deaton, 2020; Ravallion, 2020; Pritchett, 2024; Rodrik, 2021, 2024; Stiglitz, 2022, 2023; Kanbur, 2024)。
ですから、ここで本当に問われているのは、「開発経済学は科学になったのか」という一問ではありません。むしろ問われているのは、科学であることの名のもとに、何を選び取り、何を捨て、何を見えなくしてきたのか、ということです。もし開発経済学がこれからも生き延びるなら、それは方法の純化によってではなく、方法を問いへ従属させ直し、証明しやすいものの外側にある現実を理論と実証の両方のなかに取り戻すことによってだと思います。その意味で、自己反省は危機のしるしではありません。むしろ、成熟のしるしです。
Reference
Banerjee, A. V. (2020). Field experiments and the practice of economics. American Economic Review, 110(7), 1937–1951.
Deaton, A. (2020). Randomization in the tropics revisited: A theme and eleven variations. NBER Working Paper No. 27600.
Duflo, E. (2020). Field experiments and the practice of policy. American Economic Review, 110(7), 1952–1973.
Kanbur, R. (2024, September 27). The end of development economics. VoxEU/CEPR.
Kremer, M. (2020). Experimentation, innovation, and economics. American Economic Review, 110(7), 1974–1994.
Pritchett, L. (2024). “Rely (only) on the rigorous evidence” is bad advice. Review of Development Economics, 28(4), 2034–2058.
Ravallion, M. (2020). Should the randomistas (continue to) rule? NBER Working Paper No. 27554.
Rodrik, D. (2021, October 11). The metamorphosis of growth policy. Project Syndicate.
Rodrik, D. (2024, January 9). Confronting our four biggest economic challenges. Project Syndicate.
Stiglitz, J. E. (2022, May 31). Getting deglobalization right. Project Syndicate.
Stiglitz, J. E. (2023, October 23). Fixing global economic governance. Project Syndicate.